映画の中の里親と子ども、そして、ソーシャルワーカー (1)

 

児童相談所長になって 14年目。毎日、気が張った日々を過ごしているので、映画の時くらいは、仕事から離れてゆっくりしたい。それでも引き寄せられるように見てしまうのが、児童虐待や社会的養護を扱った作品だ。『プレシャス』『真夜中のゆりかご』『冬の小鳥』『オレンジと太陽』『少年と自転車』他にもいくつも見てきた。これらはどちらかというと、通好みのミニシアター系映画だ。もちろん、息抜きとして普通の商業映画も見る。そんな映画作品にも、児童ソーシャルワーカーや里親が登場してくる場面がある。ストーリーそっちのけで、その人物の描かれ方や仕事ぶりに注目してしまい、わずかなオフの時間なのに、日本の法制度の現状と比べ合わせて見てしまう。また、これが日々の業務に役立ったりするのであるが、そのような作品をいくつか紹介したい。

 

『アニー』2014年アメリカ映画。ミュージカルで有名な物語であり、1980年代に一度映画化もされている。ミュージカルにあまり関心がない筆者は、ストーリーを全然知らないまま、何となく暇つぶしに映画館に入った。初っ端から、里親家庭で5人の子どもがこき使われるところから始まる。里親はシングルの女性で、しかも、アルコホリックスである。行政のソーシャルワーカーが来ると、子どもにちゃんとしなさいと命令して、いい里親を演じているところがおかしい。

里親のもとで養育されている5人の子どものうちのひとりアニーは、4歳の時に母親から置き去りにされた「棄児」である。いつか実親が現れるという想いを抱きつつ6年が経つ。偶然から市長候補であり IT企業の社長と知り合い、ゆくゆくは養子になるというストーリーである。後で調べてみると、ミュージカル『アニー』では 1930年代の「施設」が舞台である。1982年作の映画『アニー』も見てみたが、ミュージカル『アニー』と同じ時代設定になっており、舞台は施設であった(英語では home for girls、1891年設立となっている。日本語訳は「少女養護施設」)。2014年のアメリカでは、10歳の子どもが入所しているのは、施設ではなく里親になっている。

 ここで興味深いのは、5人の子ども同士の会話である。「家族なんてできない私たちだれも」「大丈夫、養子になれるから」「いつもそう言うけど私はもう 13歳よムリよ」「大丈夫いつかきっと」。アメリカでは里親は一時的なものであり、子どもにとっては「家族ではない」ことが、この会話からうかがい知れる。実際のアメリカのフォスターケアで、アニーのように6年間も里親家庭にいることが通常かどうかはわからない。アニーも他の子どもたちも家族と暮らせることを期待し、それができない時は養子になりたいと思っている。さりげない会話の中に、パーマネンシーを重視するアメリカの社会的養護の雰囲気を感じることができる。一方、「13歳では養子はムリ」というセリフによって、養子縁組に至らず waiting listで待ち続ける年長の子どもたちの存在が映画の中で示されている。アメリカ人は、このようなさりげない会話から、フォスターケアの子どもたちが養子縁組になかなか移行できないという一連の状況を察することができるのかもしれないが、日本人の観客には、このあたりの会話が意味していることはわかりにくいかもしれない。

映画の中盤で、「里親はやめだ、おまえは施設に行くのだ」と里親がアニーに悪態をつく。ここらあたりのニュアンスは、里親よりも施設はとても大変なところという設定であり、アニーも「エッ」という顔になる。とは言っても、よくよく聞くと group homeと言っているので、日本のような大舎制施設ではないのだが、里親家庭が標準的なアメリカの社会的養護において、施設(group home)に行くというのはとても大変なところに行くという感じなのだろうか。ちなみに、日本の家庭で虐待を受けてきた子どもが中学生くらいになると「家を出たい、施設に行きたい」と言って、保護を求めてくることは児童相談所の現場では日常茶飯であるが(福岡市だけかもしれない?)「家を出たい、里親に行きたい」という子どもに出会うことはまだ少ない。アメリカの子どもは「里親に行きたい」と言って子ども保護システムにアクセスしてくるのだろうか。「施設」や「里親」という言葉の市民社会での捉え方が、こんな会話からうかがい知れる。紆余曲折があり、アニーは晴れて IT企業の社長の養子になるのであるが、この社長が秘書に電話で相談する場面がある。「正式に里親になることはできるのか、なんというか」「それは養子ということよ」と訂正される。アメリカ人でも里親と養親の違いが十分わからないことが普通なんだろうかと思ってしまう。でも、すぐそれは養子ということよ、と訂正される程度には、その違いが知られている。日本では、里親と養親の違いがどれくらいの市民が理解しているだろうかと、映画を見ながら思ってしまう。

ミュージカルにはなくこの映画オリジナルの曲に「Opportunity」がある。映画のワンシーンとしてとても感動的な場面であり、歌詞もいい。家族ができるかもしれないという期待を、アニーは高らかに歌っている。日本でも、必要な子どもに特別養子縁組の機会が広がることを目指して、日本の法制度や支援体制が整備されることを願う筆者にとって、この曲は私のスマホのお気に入りである。

 

藤林武史

 

子どもの虐待とネグレクト 第18巻第3号 2016年12月24日号より)

 

 

『ヒアアフター』2010年アメリカ映画。クリント・イーストウッド監督の作品はどれもこれも大好きだ。欠かさず見ている。この映画も何の予備知識もなく、クリント・イーストウッド作品ということだけで見た。フランス、サンフランシスコ、ロンドンの3人のストーリーが並行しながら進む。津波被害に遭ったフランス人女性は死後の世界を垣間見る。サンフランシスコの青年は死者との交信能力を持つ霊能力者であり、ディケンズの朗読CD『デイヴィッド・コパフィールド』を聞きながら寝ることを日課にしている。ロンドン、12歳くらいの双子の兄弟ジェイソンとマーカス。マーカスは、活発で積極的な兄のジェイソンに頼ってばかりで、宿題を写させてもらったりしている。ベッドルームで2人並んで寝ている夜中に、母親は泥酔して帰ってくる。翌朝、ソーシャルサービス(イギリスの児童相談所)のソーシャルワーカーが訪問に来るが、子どもたちは「ソーシャルサービスだ、やばい」と言って、母親を起こして外に逃がす。たぶん、要保護児童の定期家庭訪問だろう。子どもは自分たちが保護されるかもしれないと思っているようだ。「5分以内に玄関を開けなければ警察を呼ぶ」とソーシャルワーカーは郵便受けから叫んでいる。警察とソーシャルサービスの連携ぶりがわかる。しばらくして、子どもたちに逃がしてもらった母親は外から朝食を買って帰ってくる。「今日が訪問日であることを忘れていたわ」。母親はヘロイン依存症で、たぶん、この後のソーシャルワーカーとの話し合いで、治療しなければ子どもを保護するみたいなことを言われたようだ(ここは筆者の想像)、母親は兄のジェイソンに治療薬のナルトヘキソンを薬局に買いに行かせる。「やっと普通の家族になれる」と思ったのもつかの間、ジェイソンは薬局から帰る途中に交通事故で死亡してしまう。

ソーシャルサービスの事務所内。ソーシャルワーカーとマーカスの会話。「ママがよくなるまでしばらくの間、近所のベテランの里親さんよ。転校しなくていいの」「里親なんかやだ」「ママは立ち直る時間が必要なの」。母親の薬物依存症の在宅治療は困難で子どもにも悪影響があるという判断のもと、子どもの保護と母親の治療がソーシャルサービスで決定したのだろう(ここも筆者の想像)。母親は治療施設に入所となり、ひとり残されたマーカスは、近所のベテラン里親宅に行くことになる。当然のように施設ではなくて里親なんだ。里親もソーシャルワーカーも子どもの心によく寄り添っている。ひとり用のベッドルームには、もうひとつ空のベッドを置いてあげている。

ところが、里親からソーシャルワーカーに連絡が入る。マーカスが家のお金 200ポンドをとった、しかも学校に行っていない。「警察には届けないで」とソーシャルワーカーは言い残してそそくさと里親の家を出る。忙しいのだろう。残された里親の困った表情が印象的だ。マーカスは、このお金を元手に、霊能力者のところに行っているのだが、里親もソーシャルワーカーも知る由もない。夜遅く“ I’m sorry”と言って帰ってきたマーカスを、里父は叱ろうとするが、里母はひとりにしてあげてと諌める。里親夫婦のやりとりがリアルだ。母親の回復は思うように進んでいないのか、ソーシャルワーカーは期間延長を里親に依頼するが、里親は”Yes”とは言うものの「長くは無理、手に負えない」。どこにでもいそうな、“おじちゃん、おばちゃん”の里親にとって、母親が薬物依存症で、しかも、双子の兄を亡くしたばかりの子どものケアは難しい。心を開いてくれない、それどころか、問題行動を繰り返しているのであればなおさらである。そこで、里親が思いつくのは、自分たちがケアした元里子に会わせることだ。

その頃、サンフランシスコの霊能力者は、現実の世界に閉塞感を感じ、ロンドンに旅発つ。向かうところはディケンズ博物館。そこで、ディケンズの朗読会のチラシを見て会場に向かう。そこは、マーカスと里親夫妻が、元里子の青年と待ち合わせている場所だ。里親夫妻と、里親家庭に以前いた青年(英語では previous childと表現されている)は久しぶりの再会で、お互い満面の笑顔でハグし合うが、マーカスはぶらぶらしてくると言ったきり、その場からいなくなってしまった。「うちに来て1年になるのに無口だ」と里母は青年に嘆く。「ぼくもそうだったよ」と青年は慰める。

マーカスは同じ会場にいる霊能力者の青年と出会い、死んだ兄との交信を依頼する。交信は一切しないと決めていたものの、粘り強く依頼するマーカスに根負けして、交信を承諾する。亡くなった兄からのメッセージを伝える2人の会話は感動ものだけれども、ネタバレになるので詳細はここでは書かない。大切な人を亡くしたとき、そこからどのように生きていくのか、クリント・イーストウッドの温かい眼差しを感じる。この交信がきっかけとなって、少し成長したマーカスは、里親夫妻やソーシャルワーカーとともに母親の入所する治療施設を訪れ、回復途上の母親と再会するところで、マーカスのストーリーは終わる。

マーカスの喪失体験からの回復を支える存在として登場してくる里親夫妻の雰囲気は、日本の里親と同じである。日英の里親制度に詳しい専門家から、「里親制度のシステムは異なるけれども、里親さんは日本と同じような“おじちゃん、おばちゃん”」と聞かされていたが、本当に日本の里親と同じ普通の“おじちゃん、おばちゃん”だった。もうひとつ感心したのは、映画だからそうなのかわからないが、里親とソーシャルワーカーが一緒にいるシーンがよく出てくる。里親とソーシャルワーカーがチームになって、子どもの問題行動も成長も親との面会も暖かく見守っている。子どもを中心に置いたチーム・ペアレンティングのありようを表しているように思えるが、たまたま、映画の脚本上そうなっているだけかもしれない。

ちなみに、霊能力者を演じているのはマット・デイモンだ。20代の頃に『グッド・ウィル・ハンティング』(1998年アメリカ映画)で、親からの虐待を受け続けてきた少年を演じている。この少年は、医師との会話の中で回復の道を歩み始めるのだが、12年経ってマット・デイモンはマーカスに成長のきっかけを与える役柄を演じている。霊能力者マット・デイモンは、マーカスに語ったことが、その後の彼の回復や人生にどんな影響を与えたかを知ることはない。しかし、マーカスの心の中には決定的なインパクトとして残り続けるであろう。被害や喪失からの回復は、その回復を支える多数の支援者の存在を必要とするが、一歩先に踏み出す時に、ひとりの支援者との会話の中での言葉が重要な意味を持つことを、両方の作品は示唆している。こんな瞬間がいつ訪れるか、その場に立ち会うのが自分なのか別の人なのかはわからない。あの時のあの言葉が私に大きな転機を与えたという当事者の語りを聴くことがあるが、その重要な役割を今現在担っているかもしれないという自覚を、支援者は持っておくことは重要であろう。

 

藤林武史

 

子どもの虐待とネグレクト 第18巻第3号 2016年12月24日号より)

 

 

映画を見ることで、普段意識していないことをはっきりと気づかされることもある。『思い出のマーニー』2014年日本映画。ジブリ作品も欠かさず見ている私は、この映画のストーリーもあまり知らずに映画館に入った。原作がイギリスの有名な児童文学であることくらいは知っていた。日本語訳の本は購入していたが未読のままだ。

 

ストーリーは複雑である。無気力で心身症気味の中学生杏奈が主人公である。杏奈が「おばちゃん」「保護者」と呼ぶ母親らしき人は「生みの親」でないことが映画の前半で明かされる。また、杏奈は「もらいっ子」と自分のことを呼んでいる。里親という言葉はこの場面では出てこないが、どうも里親らしい。心配性の里母さんは、思春期の杏奈にどう関わったらいいのか戸惑っている。小学生まではいい関係だったのが、思春期になると里親と子どもの関係が難しくなることはよくある。杏奈は医師の勧めで、夏休みに里親の知り合いのところに預けられる。そこで、さまざまな体験をしながら、自分の生い立ちを振り返り、そして、新たな事実を知っていくことになる。杏奈が抱えているものも、喪失の物語だった。しかし、喪失したと思っていたものは、心の中に永久に残っていることに気づく。そして、ライフストーリーワークの教材映画かと思うくらい、子どもの中に分断されていた過去の記憶が現在につながっていくことで、子どもの表情が輝きに満ちていくプロセスが印象的だ。

 

ややネタバレになるが、主人公が心身症気味になるひとつのきっかけが、里親が養育費をもらっていたことを知ってしまうというエピソードがある。無条件に里親から愛されていたと思っていたら、実は、お金をもらっていたんだということを子どもが知ってしまうという事実の衝撃が、どれくらい子どもに大きな影響を与えるのか思い知らされる。里親委託という枠組みの中で成長する子どもの心の翳りのようなものを感じてしまう。「里親は親なのか」。アニーに繋がるテーマだ。

 

映画の最後で、里親は養育費のことを子どもに伝えるところでこの映画は終わるが、筆者はここで疑問を持ってしまう。子どもの親も祖母も死亡していることが明らかにされた。孤児である。そうすると、ずっと里親委託のままでよかったのか。本来は、養子縁組に移行してもよかったのではと思う。この映画を見た観客は、このような親を亡くした孤児は、里親が大人になるまで養育するものだと思い込まないだろうか? アニーの舞台になった 2014年のアメリカと違って、2014年の日本では里親と養親の違いは曖昧なままだ。しかし、原作の舞台はイギリスであり、このような背景を持った子どもは養子に移行しているのが、イギリスの法制度では当たり前になっているのではないだろうか。

 

原作の日本語版ではどうなっているのだろうか? 「養子」となっているのを映画では「里親」としたのではないだろうか? 養子の場合でも、なんらかの手当を支払われる制度がイギリスにはあるのだろうか? 調べてみると、岩波少年文庫では「養い母ちゃん」と表記されている。養母のようにも読めるし、foster motherを訳しているようにも思える。日本語版の翻訳を読んだ人は、里親とは思わないかもしれない。やはり養子ではないのか。気になるので、原書を手に入れて読んでみると、この箇所は“foster-ma”となっている。やはり里親なのだ。では、なぜ、原作では里親委託なのだろうか。ここから先は筆者の想像というか解釈なので、正確な解説はイギリスの里親・養子制度に詳しい人に譲りたいが、原作が書かれたのは 1967年である。パーマネンシープランニングの発想が登場してきたのは 1980年以降であることを考えると、この時代のイギリスでは、要保護児童のケア先は里親が通常であり、イギリスにおいても現在ほど養親は一般的になっていなかったのではないだろうか。そうだとすると、日本の現状とイギリスの 1960年代が同じ状況なのか、と想像は膨らむ。映画の中の里親や子ども、そしてソーシャルワーカーは、もちろん本物ではない。それにしても、原作が書かれた時代や映画が製作された時代の、社会一般の捉え方が色濃く反映されているはずだ。国と時代による描かれ方の違いをキーにして、児童福祉の推移を想像するのは楽しいものであり、謎解きのようなワクワク感がある。また、あまり知ることの少ない各国の社会的養護の雰囲気や実状を、映画を通して垣間見ることはとても興味深く、日本の社会的養護がどこに向かっていくべきかを考えるきっかけや材料を与えてくれる。

 

                   藤林武史

 

子どもの虐待とネグレクト 第18巻第3号 2016年12月24日号より