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『A’s story:年上の女の子が入って 家族が揃った』

                                                    里父HR

 

私たち夫婦は福岡市に住んでいる。4人の養子に恵まれた。

 

国際的に二か国語で暮らしている。4人の養子縁組経験を紹介する。

 

私は2010年にまた大学に雇われて、家族で福岡に戻った。

 

それまでの三人子育てが上手くいっていると自信を持ったから、もう一人養子縁組できると思った。しかし赤ちゃんの世話は大変だったから、幼稚園児の子どもをお願いしようと思った。福岡市こども総合相談センターに相談して、7歳のAちゃんが勧められた。Aちゃんは我が家のKちゃんの半年歳下で、家族に合うと思った。Aちゃんは生まれてすぐから福岡市の児童養護施設に預けられていて、家族の経験が殆ど無かった。7歳という年齢での養子縁組の難点について考えた。例えば家族に合わない癖と習慣がある。また英語を話せない7歳の子を英語の家に編入する問題についても心配した。しかしAちゃんには家族が必要だと思って、清水の舞台から飛び降りるつもりで 委託を受けることにした。

 

最初にAちゃんは養子になる意味をあまり理解できなくて、短期訪問と思ったみたいだった。そこで永遠の家族になると約束した。しばらく素直で、静かだった。しかし施設に帰れないと分かってとても怒った。習慣、食べ物、また言語も新しくて、Aちゃんは慣れずに困った。家族は皆Aちゃんとは日本語で話したが、時々英語も使った。英語の言葉を聞くと、皆がAちゃんについて悪口を言っていると疑って怒った。よく暴れた。例えばドアの外に立ってドアを蹴った。また同じ歳のKちゃんや弟のC君をいじめて、そのことでは皆が苦労した。年上の子どもの養子縁組での当たり前の困難だと思ったが、これ程難しいとは思わなかった。養子縁組の決定を後悔する程だった。しかしAちゃんへの永遠の家族になるという約束を破ることは悲惨なことだと思ったから、我慢をした。子どもセンター、里子会、また教会の友達の支えは生命線だった。私たちはAちゃんが暴れるのに疲れて、時々友達にベビーシッターとして助けてもらった。このことに、とても感謝する。

 

しばらくすると、私たちは問題を大体理解した。年上の里子・養子は新しい家族を信頼しない。潜在意識で思うのは:「きっとこの家族は私を拒む。私が拒まれる前に 家族を拒む。その方が痛くない。」子どもが家族を信頼できるまで愛と忍耐が必要だった。Aちゃんが暴れると、できる限り怒らずに懲らしめた。重要な事は懲らしめてから愛を示すことだった。Aちゃんがどんなに暴れても、家族の大事な子どもであることを伝えて安心させようとした。半年でAちゃんがやっと現実を理解できるようになって落ち着いてきた。これで我が家の子どもになったと感じて、安心した。

 

家族に入ってから1年後に福岡国際学校に転校した。日本語を忘れずに英語も流暢に話すようになった。2年連続で学級のスペリングコンテストにも勝った。

 

4年半が経って、Aちゃんは素晴らしい娘になった。4人の子どもの内で一番おとなしく家事の手伝いをする。初めのころ自信がなく弱かったが、現在はピアノとバスケットボールを一所懸命習っている。家族はAちゃんによって大変助かっている。

 

これで家族が揃った。時々兄妹喧嘩もあって私たち両親は困り果てることもある。また4人の子どもの養育は経済的にも大変だ。しかし、それでも他の生活は考えられない。彼らは面白くて、私たち両親を喜ばせる。神様から素晴らしい4人を預けられた。私たちは永遠の家族であると信じている。その絆は血縁より強いと思う

 

『C’s story:悲しい経験の後に縮れ毛の息子に恵まれた』

                                                             里父HR

 

私達夫婦は福岡市に住んでいる4人の養子に恵まれた。

4人の養子縁組経験を紹介する。

2002年に福岡から母国へ引っ越した。二人の子ども、L君とKちゃんに恵まれた。両親二人は忙しい大学教師だから、子どもは二人で十分と思った。しかし、数年後に妻は強いインスピレーションを感じた。それは肌が茶色の男の子が家族に入るという予感だった。それでもう一回養子縁組の申請書を出した。

間もなく若い妊婦Mさんが赤ちゃんを預けて下さる決定をした。生みの両親は白い肌、金髪の人々。茶色の男子ではないから不思議に思った。しかし選ばれて嬉しかった。

最近の母国の養子縁組は「open adoption」の傾向が最近見られる。1999年L君の養子縁組は「closed adoption」で、生みの母に会ったが、お互いに名字と住所を教えることができなかった。「Open adoption」では生みの両親と養子縁組の両親が直接に交流できる。生みの両親が子供の育ちにどのような役割を果たすのかは生みの両親と養子縁組の両親が互いに決定する。生みの母Mさんがおばさんのように、たまに遊びに来ることを望んだ。すでに「Open adoption」の研究報告を読んでいて、「お母さんは誰?」のミステリーを解決することが精神的にいいことと学んでいたし、Mさんが立派な人と思ったから、「open adoption」を合意した。Mさんは先に不幸な恋愛関係から離れた。ボーイフレンドは妊娠後の手伝いをしなかった。一人で赤ちゃんの面倒を見るより、私達家族に預けるほうがいいと決定した。Mさんは色々失敗をしたが、そのころ回復して、人生を改善しようとしていた。私たちはこのことに感動した。また、Mさんは我が家が好きみたいであった。ある日彼女が我が家を訪問した時話をしている間私は洗濯を終えた物を畳んでいた。Mさんが洗濯物を畳む私を初めて見て、「この家族がちょうどいい」と言った。

生みの父は妊娠中赤ちゃんを認めていなかったから、家族裁判所は父の親権を剥奪した。後ほど金髪の女の子が生まれた。「S」と名付けて、ホール家の里子になった。残念ながら、Sちゃんが家族に入ってから生みの父が後悔して、親権の回復を裁判沙汰にした。私たちは一週間裁判所に出席した。人生の中で一番怖い経験だった。結局生みの父の親権が回復されて、Mさんと共同監護になった。半年間一緒に暮らしたSちゃんが我が家から奪われた。今までで一番辛い経験だった。妻が落ち込んで、起床が難しくなった。

しかし、その二ヶ月後に、養子縁組施設からもう一回連絡があった。他の妊婦がその日に男の子を生んで、我が家に預けたいと言うことだった。母は白人、父は黒人だった。なるほど、茶色い肌の男の子。妻は直ぐ飛行機で迎えに行った。赤ちゃんが早産で、とても小さかった。また縮れ毛だった。「C君」と名付けて、日本でも母国でも使える名前にした。C君は元気で活発な男子になった。小学校一年生で友人を作るのが上手。Sちゃんの経験が悲しかったが、C君を育てることで悲しみを乗り越えて、賑やかな家族になった。

 

次回:年上の女の子の養子縁組で家族が揃った

 

『国際家族になる』                   里父HR

 

前回長男L君の養子縁組について説明した。

 

しばらくすると二番目の子どもが欲しくなった。しかし妻が大学に雇われて、2年間以上福岡市に住むことになった。家族が帰国するまで2番目の子どもを伸ばしたくなかった。外国人が日本で養子縁組する可能性があるかどうか分からなかった。福岡市児童相談所に訪ねて、夫婦両方が外国人の先例は無かったが、規則に問題はなかったから、訓練を受けてから里親登録した。

 

一年後に乳児院に養子縁組可能の一歳女子がいると教えられた。そこに行ってみると、一歳児の部屋の子どもたちがわいわいと私達を囲んだ。しかしKちゃんは注意深い子どもで、簡単に仲良くするわけではなかった。抱っこを許さなかった。彼女は「怖い金髪のおばさんは一体だれ?なんで毛深いおじさんが笑っているの?」と思ったかもしれない。近くに座って、Kちゃんが慣れるまで他の子どもと遊んで、徐々に仲良くなりやっと一緒に帰って、養子縁組へ進んだ。(この時、同じ乳児院にいたもう一人の赤ちゃんが将来の次女になると知らなかったが、7年後に家族に入った)。

 

L君は新生児として家族に入ったが、Kちゃんは一歳だったので、困難なこともあったが、元気な娘になった。小柄で、いつも学級で一番小さい子どもである。初めのうち体と声が大きい兄のことを怖がったが、Kちゃんは体が小さくても声が大きい。そのうち、声で兄を追い払えるようになった。Kちゃんは注意深かった。全く転ばない。自信が着くまで歩かなかった。なので歩き出した時には完全に歩いた。

 

「国際家族」になることを期待した訳では無かったが、家族で抵抗はなかった。どこでも明白に「血族ではない」と見られるのは難しいかなと心配したが、直ぐに慣れた。周りの人が殆どプライバシーを尊重して、私たちが養子縁組について言うまでに何も聞かなかった。

 

1年の内に私たちの母国に帰国して、Kちゃんは国籍を得て、母国の文化の中で育った。8歳で福岡に戻って、4.5年間日本の小学校へ行っている。現在家族の中で一番バランスのとれた二か国語を話す人である。両方のネイティブスピーカーである。

 

Kちゃんは優しくて、家族を大事にしてくれて、才能を伸ばしている。またKちゃんによって我が家と日本の絆が永遠になった。私たちは大変恵まれている。

 

次回:悲しい失敗の後に縮れ毛の息子に恵まれた

 

『4人養子に恵まれた』         里父HR

私と妻は若くて学生結婚した。両方が大家族から来た。

 

私は6人兄弟、妻は7人兄弟。数人の子どもを期待したが、学生だったので急がなかった。数年後に適した時期になったと判断した。しかし妊娠にならなかった。医者と相談して、不妊治療をしないと妊娠しないと言うことで、数回不妊治療を受けたが、いつも効かなかった。

 

1995-97年に留学生として福岡市に住んだ。領事館に働くアメリカ人家族と友達になった。白人の両親と3人養子(アメリカ白人、日本人、中国人)だった。とても仲がいい家族で、両親が子どもに自由に養子縁組について話したのがびっくりした。突然な「通知」ではなくて、自然に母さんが子どもに出産日の話の如く、笑いながら家族に入った日の経験、例えば当日の服、当日の食べ物について話した。皆さんに喜びの日として扱った。それで養子縁組は違和感なしにできると安心した。1997年に養子縁組の申し込みを準備し始めた。

 

私達はキリスト協会の家族福祉機関に相談して、里親・養子縁組の研修と申し込みをした。まだ、貧乏な大学院生だったが友達と家族の財政援助によって費用を払った。そして、生母への自己紹介の手紙を書いた。

 

ある日養子縁組機関から妊娠中の若い女性Eさんが私達を紹介した手紙を読んで、私達に赤ちゃんを預けるように決めたと知らせて来た。赤ちゃんが生まれる前に直接Eさんに会ったが、お互いが名字を教えない規則があった。

 

1999年1月Eさんが男の子を出産して、赤ん坊L君が里子として家族に入った。最初は目がずっと閉じていて心配した。しかし、元気な男子になった。6ヶ月後に養子縁組が決定した。

 

Eさんの犠牲の精神に感謝している。彼女はやっぱり胎内の赤ちゃんを愛したが、子どもの面倒を見られる状態ではないと考えて、私達夫婦に預けることを望んだ。その時からEさんと直接連絡できるようになって、たまにfacebookを通して話す。その後、Eさんが結婚して、夫婦で三人の子どもに恵まれた。

 

L君は立派なお兄さんになって、私達とEさんはお互いに彼を誇りに思っている。