私の体験

『家族とはこういうものだという、とても大事な感覚』    【K家】Y.Oさん

 

Kファミリーホームのお母さん、お父さん、そして弟たちへ。血は繋がっていませんが、僕は家族だと思っています。この家があったから、僕が今まで感じてこなかった家族とはこういうものだという、とても大事な感覚を得ることができました。とても感謝しています。児童相談所のO先生、Nさん、Mさん、そして今までの僕の担当の先生方、福岡乳児院の先生方へ、様々な迷惑をおかけしたと思います。僕はこの家に来て、自分でも変わることができたと感じています。僕は様々な人から支えられ、助けられていたことを恥ずかしながら今、実感しております。ファミリーホームのお父さん、お母さんへ伝えたいことはたくさんありますが、まずは、5年間、僕の面倒を見てくれてありがとうございます。この5年間、様々なことがありましたね。ここに来て、すごく貴重な体験をさせてもらっています。今までありがとうございます。そして、こんな僕だけど、これからもよろしくね。

 

『これからも楽しく仲良く』             【K家】Sさん(母)

 

いよいよ夢の保育士に向けて勉強の日々ですね。我が家の子供達に優しく接してくれるO君を見ながら、子供相手の仕事が向いているのでは?と思っていたら、私に自分から保育士になりたいと言って来たね。自分を見つめ、自分で考え行動するように成長してくれたOくんを誇りに思います。措置延長になり我が家でまた一緒に過ごせて嬉しいです。あと2年がかりで私、投薬自立に向け頑張るぞ。笑。これからも楽しく仲良く過ごそうね。

 

『本当の兄弟だと思ってます。』            【K家】T.Yさん

 

Kさん、Sさん、兄弟のみんなへ

自分は恥ずかしくて、KさんやSさんのことをみんなみたいにお父さんやお母さんとはいえなかったのでこの場で言わせてもらいます。

お父さんお母さんへ

3年間という短い間でしたが、本当に本当にお世話になりました。3年間は長い様で短かったです。短かったのはファミリーホームの生活が充実していたからだと思います。泣くまで喧嘩したり文句を言いあったりしましたね。その時に血も繋がってないけん関係ないやろ。とか言ってしまったり、門限を破ったり、心配をかけてしまい、本当にごめんなさい。でも、今考えると血も繋がってないのに、家族の様に接してくれ、自分達より子供達を心配する姿を見て、自分もそんな大人になりたいと思いました。いつもは言えないけど、とても感謝しています。

 

兄弟のみんなへ

血は繋がっていませんが、君たちは本当の兄弟だと思ってます。Oは大学生、Sは中学生、Rは小学生、みんな新しいとこに行きます。色々と不安な事や不満があると思うけど、そういう時こそお父さんやお母さんを頼ってください!自分は居なくなりますが、兄弟みんなの成長をみにきます!!3年間本当にありがとう。

 

児童相談所のOさん、Kさん、Oさん、Mさん、今までの自分を見守ってくれた先生方には色々迷惑をかけてきました。先生方はYくんはいい子と言いますが、今まで支えて貰ったからこそ今の自分があります。児童相談所に行き、先生方が会えてなかったら、自分はいません。なので、本当に感謝しています。これからは自分が支えて貰った様にみんなを支えれる様な大人になり、児童相談所に顔を出しに行きます!

 

自分を支えてくれた方々へ

今まで、本当にありがとうございます。そして、自分はまだ未熟者でこれからも迷惑をかけると思いますが、なにとぞよろしくお願いします。

 

 

『これからもずっとずっと応援してるからね。』    【K家】Sさん(母)

                     

我が家に来た頃、ここは施設やけんと言い切ったYを思い出します。色々あったね。そして私達は少しづつ家族になっていったなあと感じます。こうして巣立とうとしているYを送り出すとき、あれもこれも、そうだこれもあれも、それもと口が酸っぱくなるくらい色んなことを言い続けたなあと反省したりしています。仕方ない、母は心配症と思ってください。私達はずっと家族。Yの応援団です。これからもずっとずっと応援してるからね。ファイト~

 

 

『名前で呼んでくれる人がいる』            【T家】Yさん

 

2015年8月、中学2年の夏。この日をきっかけに私は家族というカタチを知ることになりました。名前で呼んでくれる人がいる、ただいま、おかえり、おはよう、おやすみなさいがある。部屋があって服があっておこずかいがある。当たり前のようにご飯があって会話があってえがおがある。理由があって叱られる。今では全てが当たり前のようにあるけど、私には経験したことのないものでした。他にも大きいコトから小さいコトまで数えきれないくらいたくさんのことを教えてくれました。どこの里親さんでも・・じゃなくて2人だったから今の私には家族を知ったし家族だと思えます。

今も昔も自分に自信なんかないし長所よりも短所が目立つ人間です。でも今は昔と違ってどんな私でも受け入れてくれる人がいます。だからこそ自分に自信を持ちたい、自分の武器を見つけたい。そして自分なりの幸せを待つだけじゃなく、見つけるだけじゃなく自分で逃がさずつかみたい。そう思うようになりました。出会って繋がったからこそ、これから変化していく私を見守っていてください。今日までありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

 

『失敗しても大丈夫!』               【T家】Kさん(母)

 

高校卒業、そして専門学校への入学おめでとう!

中2の夏から我が家の家族になって約5年、お母さんはあっという間でしたが、Yちゃんにとっては、そうではなかったみたいだね。たぶん、そうだろうね・・・いろいろ頑張ってきたもんね。日ごろのお母さんは小言が多いので、そうは思わないかもしれないけど・・お父さんもお母さんもあなたの頑張りを認めています。でも、親心・・もっと、もっとと欲を出すお母さんです。(苦笑)

こうやって、Yちゃんに手紙を書くのは初めて・・。色々と思い出して感慨深いものがあります。今は自分の夢(目標)を実現するために、学校の授業(リモートだけど)やバイトもよく頑張っていますね。今までの生活リズムと違い大変だけど、きっと今の頑張りは、これから先のあなたにとって、とても役に立つと思います。他の友達たちとは違い、早いうちから色々と自分で考えて悩んで行動しないといけないけど、いずれは自分でやっていくこと・・・この経験はきっとあなたの武器になります。

いつも言ってるけど、困った時、迷った時などは、相談してください。2年後、我が家から出て自分で生活するようになった時も同じです。あなたは私たち夫婦にとって大切な娘です。あなたの幸せを望んでいます。相談を受けた時・・もしかするとあなたの望む答えを言わないかもしれません。でも、一度、自分の中に取り込んで考えてみてください。そしてYちゃんが悩んで考えて出した結論は応援します。

お父さんとお母さんはあなたの優しさを良く知っています。Kが家を出る時にLINEのステイタスメッセージに書いてくれたKへのメッセージ。Mの誕生日に作ってくれる動画。知らないだろうけれど・・泣いています。(笑) いつも弟たちを大切に思ってくれてありがとう♡

 

あなたは幸せになるために生まれてきました。

たとえ今、何かうまくいかないことがあっても・・・

自信を無くしたり・・・自己嫌悪になったり・・

誰かを許せなくて、そしてそんな自分を許せなくても・・・

色々落ち込むことがあっても・・・あなたの一番の味方はあなたです。

 

間違っても大丈夫!

失敗しても大丈夫!

遠回りしても大丈夫!

 

一つ一つ逃げずに、じっくり向き合ってください。きっとあなたを輝かせてくれると思います。そして・・・あなたの周りでどんなことが起こっても、自分を信じてください。

自分を信じてあげてください。

自分を救うのはあなただけです。

自分を大切に、自分のことをきちんと認めてあげてください。

そうすると、色々なことが変わってきます。

すべてのカギは、あなたの中にあります。

幸せと思える人生をこれから築いてください。

自分を幸せにできたとき・・・ きっとあなたの大切な人も幸せにすることができると思います。

これから、あなたの人生を楽しんで!

 

早く彼氏を作って、お父さんとお母さんに紹介してね♡

私たち夫婦は、あなたをずっと見守っています。

これからもよろしくね。

 

『お墓も一緒のところに』              【A家】HSさん

 

 私は5歳半の時、育児院から今のAファミリーに来ました。元々私は妊娠6カ月で生まれ体も弱く発達も遅れていました。それで、たくさんの刺激が必要とM先生は考えたらしく、ひらがな、カタカナも知らなかったのでその勉強をしたり、ピアノやスイミングを習いました。

 小学校に入っても毎日三時間の勉強と習い事は続けました。そのおかげで普通学級で成績も真ん中より上でした。中学校からはM先生が病気になったので、一人で勉強をしなければならなくなりました。そのせいで成績は下がりましたが、無事に高校にも合格し、その高校の推薦で、今短大にも通っています。

 短大では、保育の勉強をしていて超未熟児についても学ぶ機会がありました。超未熟児の三大特徴の中に脳性麻痺がはいっていてびっくりしましたが、「あっ、だからか」と納得できる心当たりもありました。

 措置延長で今短大に通っていますが、それが終わってもしばらくここに居座るつもりなので、今後ともよろしくお願いします。ちなみにお墓もM先生と一緒のところに入れてもらいたいと思っています。

 

『120%頑張っているよね』            【A家】Mさん(母)

 

 時がたつのは早いものです。あっという間の13年間でした。

 里親認定を受け最初に紹介されたのがSさんでした。「18歳になるまでの13年間お願いします。そしてその後も実家のようにたまに里帰りで帰れる居場所として長く関係を持ってもらえたらと思っています。」というのが児相からのお話でした。私と一緒にその話を聞いていた里父が「13年もいきているかなあ。」とつぶやいていたのがおかしかったです。一緒に生活するようになってからは、1日24時間をどのように使うといいかを常に考え、工夫しながら過ごしていたように思います。何しろあなたはゆっくりさんで、人が40分でやることを3時間もかける人だったから。小学校時代の勉強は里母の私が、中学校は私が病気になったこともあって、里父が勤務時間を変えてまであなたに付き合い、無事高校に入学。高校もあなたに付き合うことになるのかなあと思っていたら、なんと自分の力だけで推薦の成績を勝ち取り、今年短大へ。少しずつ自分でやれることが増えてきて大人への階段を上がっていくような気がしています。短大は保育科なので高校生活と変わらないスケジュールで忙しく、ぶつくさぼやきながら出かけるあなたを送り出しながら、120%頑張っているよねと思うこの頃です。短大を卒業したら就職。それに慣れて落ち着いたら独立かな?少しずつ大人に成長するあなたを楽しみながら応援しています。

 

 

『大学進学後も・・』               [O家】Aさん

 

拝啓

 今度は皆様の手厚いご支援のおかげで無事高校を卒業することが出来ました。ありがとうございました。特に進路について考えているときに、今までにサポートしていただいていたことに気づきました。大学進学後も勉学に精進し、社会に貢献していきます。     敬具

 

『これからも家族として繋がっていけたら』      Oさん(母)

  A君、卒業おめでとう!

 私からお手紙を書くのは、かなり久しぶりと思います。

 小さかったあなたがこんなに大きくなり18さいになりました。

これも、周りの方々の助けがあって、いろんな偶然が重なって、またあなた自身の運があってのことがと思います。

 小さい頃は、素直で優しい男の子でしたね!いつもお姉ちゃんの陰になって、満たされない思いもさせてしまったと思います。でも、いつもにこにこ笑顔のAくんに癒され、助けられました。 今は、思春期真っただ中で、めったにそんな顔を母には見せてくれることは少なくなりましたが、お友達にはこれまで通り、愛されるAくんでいてくださいね!

 まだまだ体の事とか、今後の大学生活とか母としては心配は絶えませんがAくんの持ち前の力を信じて、できるだけ見守るように私も頑張ります!

 家で過ごす期間はあとわずかかもしれませんが、これからも家族として繋がっていけたら嬉しいです。

 

 

『親孝行できるように頑張ります』              【O家】Uさん

ママへ

3年間Uを支えてくれてありがとうございました。

1、2、3年、3年間色々ママを困らせてばっかりで本当すみませんでした。自宅きんしんになったり、勝手に家を飛び出してたくさんママを泣かせてしまったね。今では本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

けど、今こうしてUがこの学校を卒業できるのは、本当にママのおかげだと思っています。学校ともめ事になった時も一緒に戦ってくれたり、一緒に泣いてくれたり、本当にママにはたくさん色んな思いをさせてばっかりやったね。けど、ほんとうあの日ママが格好良く見えたよ。

ありがとう。そして、今日こうやって福岡高等学園を卒業できるのは本当に家族の支えがないとできていないことやった。今Uが思うことは、ほんとうにママの子で良かった。他の家とは少し違うけどそれはそれ。

これからママに色々してもらった分親孝行できるように頑張ります。なのでこれからもUのそばでずっと見守って下さい。立派な社会人に絶対なってみせてあげる。

 

『これからもずっと仲良く暮らしていこうね』     Oさん(母)

Uさんへ

いよいよ新社会人ですね!本当にこの日が来るのが信じられないです。

Uは、母の日やママの誕生日などによく書いてくれましたね。

でもママが改めてUに手紙を書くのは2回目です、たぶん。

初めて書いたのは、昨年のあの悲しい事件の時。あれは本当に人生最悪の事件でした。Uにもう2度と会えないかもしれないと思いつつ、どんな思い違いがあるにせよ、ママの気持ちはしっかり伝えないといけないと思い、必死の思いで出しました。あれから、もう1年。今は何事もなかったように?穏やかに毎日が過ごせてます。細かい事を言えば、やはり色んな問題行動で相変わらず、油断できないUでした。これからも、当分はそういうがまだまだ続くかもしれないけど、失敗からきっと多くの事を学んでくれてると思います。

色々あったけど、お互い決意して結んだ親子関係。良い時もあれば、辛い時もある。途中でおじいちゃんも亡くなった時も、みんなで駆けつけて看取ってあげたよね。だから、Uは本当にうちに縁があった子なんだろうなぁと思うし、きっと天国のおじいちゃんも見守ってくれてることでしょう。(本当に、じいじはUが中学生になる姿までは生きて見たいと闘病中も言ってましたよ!)

これからは、学生時代と違ってシビアな要求がくる社会で働いていかないといけません。でも昔から子ども好きなUだから、きっと自分が選んだ第一志望の職場できっと頑張れるはずだと信じています。

また困った時は、一人で暴走してごまかさないでください。絶対に周りに助けてくれる人はいるはずだから、素直にSOSを出してうまく乗り越えてって欲しいと思います。家ではまだまだママとのバトルは絶えないでしょうけど、ママも年取ってくるしちょっとずつでも優しくして欲しいと思ってます。これからもずっと仲良く暮らしていこうね。

ママより

『2018年12月4日火曜日 「人権を尊重する市民の集い」 実践報告』

                         里親Aさん

 

お話しをさせていただく機会を与えられて感謝します。

 

「人権を尊重する市民の集い」にふさわしいお話しが出来るか危惧しますが、ささやかな思いと体験をお話しして、その責任を果たせればと思います。

 

私は30歳のときに幼稚園設立と幼児教育の現場で働くチャンスを頂きました。

人間の生涯教育の出発点である乳幼児教育の学びをするために、母校の神学部に編入して、幼稚園で働きながら、4年間の学部生活を過ごしました。その中で心に残る先生や学友に出会えたのは、私の生涯の貴重な財産であると思っております。私は、生涯無一物の生き方をしたいと考えておりますが、この貴重な経験と人との出会いは、何物にも変え難い、目に見えない財産です。

その出会いの中で、最初にお話ししたいのは 一人の学友、私の友人のことです。この友人とは大学で3年間、机を並べて親しい交わりがありました。

この友人は 目が全く見えないという、大きなハンディがあります。

けれども、彼には素晴らしい声、テノールで、心を揺さぶる魂の歌を歌います。

友人の名前は、「新垣 勉 あらがき つとむ」といいます。

1952年 沖縄で生まれ、父は嘉手納基地に駐留していたメキシコ系アメリカ兵、母は沖縄の読谷村(よみたんそん)生まれの日本人女性でした。彼が生まれて、両親は離別、父はアメリカに帰国、母は再婚。彼は祖母に預けられ、育てられました。それだけでなく、生まれてすぐに、医療ミスで、使用してはいけない薬品を目に手当されて、失明を強いられてしまいました。

母に対する憎しみ、父を探して殺したいという衝動、死にたいという絶望が、彼を襲ったのは想像に余り有ります。そのような彼を救ったのは、二つの出会いでした。その一つは ① ラジオから流れてきた様々な歌でした。東京混声合唱団、二期会合唱団、教会の讃美歌も有りました。後世、全盲のテノール歌手として世に知られ、サントリーホール、武道館、アメリカのカーネギーホールを満員にするほどの歌手になる土壌は、このとき既に有ったのです。また、マリオ・デル・モナコを育てた、有名なボイストレナー、アンドレア・バランドーニさんは、新垣勉君の声を、このように表現しました。「君の素晴らしいテノールの声は、君のお父さんからのプレゼントです」と言わしめたのです。

この言葉は、憎んでいた父親を受けいれる父との和解に一歩前進する言葉でもありました。生まれながらにもって生まれた賜物、父親からの贈り物は、ラジオから聞こえてきた歌、音楽に出会って、声楽への希望を触発させました。

このような出会いについては、私のお世話している子ども、里子の実例の中にもあります。ささやかでありますが、後ほど、子どものケースでお話ししたいと思います。一人ひとりの里子にも両親からの贈りもの、祖先からの受け継いだギフト、賜物が必ずあるのです。もう一つの新垣勉君の出会いは、新垣君の心の中からのことば、絞り出す本心の言葉に、耳を傾けて聞いてくれた人がいたという、人との出会いです。

新垣勉君は 14歳で育ててくれた祖母を亡くし、天涯孤独となりました。

その後、16歳で出会ったある牧師に、こう告白したのです。

「僕は、大人になって、アメリカに行って、父親を捜して、見つけて、殺してやりたいのです。」その告白を聞いた、その人は何も言わず、新垣勉君の声に耳を傾けていましたが、新垣君の耳には、その人のすすり泣く声が聞こえてきました。新垣君はその時の場面を思い出しながら、こう表現しています。

「言葉にならない言葉というものが、人の心を動かし癒やすのかな。何となくそういう思いが自分の中に起きてきた。そして、わずか16歳の少年のために、他人の一人が、どうして自分のために涙を流してくれるのか?そのことにも驚いた。」と、いうのです。 父を許す、母を許す という、心の溶けていくような始まりだったのではないでしょうか。

私は、このような場面を心に描いてこのように思っています。

「このような心で 言葉にならない言葉で 子どもの 里子の 言葉を 聞いてあげらる 里親になりたい! ならねば!」     そう思います。

逆境 満帆! 新垣勉君の 旗印です、しかし歌と人との出会いは 彼を活かし、彼に逆境 を跳ね返す力を与え、逆風 満帆 人生の航路を 切り開いていったのです。 里親と里子の出会いも 新たな道に一歩を踏み出す出会いになっていかなければと、勇気をもらっています。

 

里親と里子の話をしたいと思います。

 

ここに 喜 怒 哀 楽    反感 共感 という言葉を書いてきました。

里子 たちは 一概に 喜怒哀楽 の 喜 と 楽 がなく 怒りと 哀しみ 不安に満ちているように思えます。

喜 とは 愛 喜び 安心 寛容という広いこころ柔和な、こころ模様をいいます。楽 とは 文字どおり 嬉しくて楽しくてたまらない心です。

里子たちには その喜び 楽しみの 心が 養われていません。育っていません。反対に 怒り 哀しみが  心に満たされていると 言っていいでしょう。

自分中心 ねたみ 嫉妬  やきもち 人の喜びを喜べない

自分が喜 楽に 満たされていなければ 友人や 友達 近隣の人や大人にそれを、分け与えることは 出来ないと思います。

それを 私は 「大きい方は あなた! 小さい方はわたし!」の心といっています。ある賢いお母さんが こんなお話をしました。幼い姉妹を育てるときに平等であることは、勿論大切ですが、自分よりも他者を思う心も育てなければならないと、考えてきた。「一つのおせんべいを二つに割って 二つに分けあって食べなさい!」といって渡す、どちらが二つに割るかは別にして 決っして間半分には割れない、その時、二人の姉妹の心の中には、どちらが大きいか、どっちが小さいか!?」「どちらをとるか、どっちをやるか?」の一瞬の心の戦いがある、そして決断する、「大きいほうがあなた、小さいほうが私!」 このような決断を出来る子育てを願ってきたというのです。このような親や大人の態度、生き方が大きな影響を子どもに与えるのです。確かに姉妹は立派な大人に成長しておられます。これが 里子たちは難しい!のです。 全部自分のもの、分け与えるという心の余裕がまだ育っておりません。

共感 共感の心 と 反感   反感の心。

共感とは 他者の喜びを喜ぶ心 

反感とは 他者の喜びを喜べない心  他者がいい成績をとったり、いいプレゼントをもらったりしても、よかったね!と言えない、思えない心、非難したり、無視したり、素直な表現が出来ない心です。けれども、反感の心をなくす、ゼロにすることは出来ません

乳幼児期(胎児期~9歳迄)に喜びとうれしさ、幸せ感の中で育っていれば、大きな共感のオブラートで、怒り、哀しみ そして嫉妬や妬み、やきもちという反感を覆うことができます。

喜、楽の心を 里子の心に満たして上げることが、里親の里子に接する心構えではないかと教えられるのです。

そのような 心は 母親の心、教え、家庭教から学ばされると思います。

里親には 出来ることと、出来ないことがあります。特に幼い時と違って、思春期以降 母親や血のつながった血縁でなければ 出来ないことが出てきます。

そのような里親の役割の難しさの思いから、子どもたちの母親や親戚血筋の方々との絆を前向きに作ってきました。

これは、大変なことでもあります。大概、父親、男性は行方不明、どこにいるのかわかりません。母親は一人残されますが、心の病気だったり、別の男性、つまり、里子が知らない男性のパートナーがいます。母親すなわち、パートナー付お母さんと話し合うということが大事になります。

里親のケースワーカー的仕事があります。母親の生活、服装やたばこの喫煙の苦情、子どもの学校の報告、行事への参加呼びかけなど頻繁な接触が必要です。男性パートナーが変わる事にも関わらなければなりません。

私たちの生活の場は、FH(小規模住居型児童養育事業)アガペ・ヴィレッジ といいます。

FHは 定員6名で、大規模児童養護施設から 小規模施設へ移行した施設です。

子供の構成員  19歳の女の子   専門学校生

        16歳の女の子   高校生

         14歳の女の子   中学生 2

         12歳の男の子   小学6年生

         9歳の男の子    小学3年生

 一番上の専門学校の女子と一番下の小学3年のことについてお話したいと思います。19歳の女子、来年3月で20才、成人式を迎え、専門学校を卒業して横浜に就職します。

中学生のころ、将来の夢を語り始めます。

幸いにお母さんはよくFHに来ていました。お母さんの得意な事はお料理でしたこの子は「お菓子を作る人」が夢で、将来はお菓子作りの専門家、パティシエを目指す事を考えていました。料理やお菓子作りが好きなのは、お母さんからのプレゼントですね。高校もそのコースがある学校に進み、専門学校も製菓コース、パティシエを目指す専門学校に進みました。

これを実現するため、児童相談所の2年間の措置延長の決定もありました。

3つの給付型奨学金の取得には、里親の強力なサポートが必要でしたが、それが効を奏して、この奨学金で学費は全部まかなえました。ただし途中退学とか卒業が出来ない場合は、全額返還の義務があります。また、就職活動においては高校時代に専門のコースを選んでいたこともあって、成績も真ん中くらいで、就職担当の先生方の理解と協力も得られて、遅ればせながら念願の菓子部を持つホテルに決定しました。

就職先は、横浜の大きなホテルです。4月から横浜で一人暮らしが始まります。

もう一人は、一番下の9才小学3年生の男子です。大変神経質多動で、乳児院から3才になる前にやってきました。かなり長く夜驚が続きました。つい最近まで昼夜逆転があり、夜寝るという当たり前のことが出来ません。里子が夜寝ない、寝つきが悪いというのは、里親の大きなストレスの一つですね。

この男の子は引き受けてから7年目に入りましたが、やっと少し変わってきたかなという様子です。以前は夜寝る時間になると、目の色が変わって少し恐ろしいような夜行性の目つきになったのですが、最近は夜になると眠たい様子をするようになりました。聴くところに寄ると、母親の胎内にいるときから、母親は昼夜逆転の夜の生活だったそうです。一年間ゆっくりと家で過ごし、二年目は、3年保育で幼稚園に車で通いました。幼稚園の先生方は事情を理解した上でよくお世話をしてくださいました。幼稚園には嫌がらずに通っていましたが、自ら進んで楽しむ力は無かったと思います。幼稚園の運動会に参加できたのは年長児になってからでした。1年から3年生の2学期始めまで、不登校と登校前の朝の時間の混乱パニックは大変でした。担任、学年主任との協力、話し合いに時間を掛けました。一番効果があるのは、先生に迎えにきてもらうことです。一度だけそれを要請したことがあります。それが出来るのも、小学生の2年生位まででしょう。自主的に学校にいくという芽を伸ばして行かないといけません。「芽を伸ばす!」ということは、かなり難しいことだなと思います。

里親は、学校の校長先生はじめ担任、学年主任、その他の力のある先生方の協力を引き出せる関係を作ることが大切です。それに地域の方々の声かけ、児童民生委員の働きも頼りになると思います。

さて、この9歳の子の賜物、才能、をどのように理解するか?

幼稚園に通っているとき、幼稚園では放課後、YMCAのサッカークラブがありました。よく見学したのですが、「サッカー、やりたいか?」と聞いてもやりたいとは言いません。体育教室もありましたが、やりたいと言いませんでした。何に興味があり、何が得意なのか? なかなか思いつかず、自分から何かをやりたいという意志表示もありません。

その時、思い出したのが生後4ヶ月~2才10ヶ月まで過ごした乳児院から、引き取るときの先生の言葉でした。「この子は一度聞いた歌は、ちゃんと覚えていて、正しく歌えるのですよ!」という言葉でした。それを思い出したので、この子のおばあちゃんに電話を入れて、その音楽的賜物のルーツを探ってみたのです。そうしましたら、彼のおじいさんにあたる人が、なかなか音楽に興味関心があった人だとわかりました。

それで、「どうだ!ピアノをやってみるか?」というと、「やりたい!」といいました。長く付き合いのあるピアノの先生にお願いしてレッスンが始まりました。上手に弾けるようになるというより、子どものメンタルも配慮して指導してもらっています。

今年、4回目の発表会が終わりました。モーツアルト、ベートーベンの短い曲ですが暗譜で弾き終えました。けれども、ピアノの先生のお宅に通う時に、途中で違う小学校の生徒に会うことを理由に、行くことを渋り動かなくなってしまったので、先生に自宅にレッスンに来ていただくようにして、今も続いています。

他の子どもたちも それぞれ将来の夢を持っています。

高校一年生の女子は、韓流エステティシャン、中2女子二人は、中華料理と和食のそれぞれ料理人、小6の男の子は、絵画 工作などの芸術活動の関心を活かしての作業所などでしょうか。

里子たちの将来の夢を、彼らの賜物を考えて、共に語り合えるのも、里親ならではの喜び、やりがい、でもあります。

私は、上智大学のアルフォンス・デーケンさんの「死の教育」や、エリザベス・キューブラロスの「死の瞬間」などの講義をしてくださった大学の恩師から、アメリカでの研究の内容、つまり「人の誕生から、その一生涯」を扱う生涯教育(ロングライフエデュケーション)の講座から、アメリカの里親制度に触れられたことが里親に関心を持つ機会になりました。またその恩師が季節里親をしておられたことを見て、里親登録を致しました。38才のときでした。

また、里子が社会人として自立するまでを見守る責任が、里親にはあると考えております。具体的には、里子が28才になるまでは見守り続けられる制度が大事だと思っています。

「富士山に登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」 それを文字って、

 「里親をやらぬ馬鹿、二度やる馬鹿」 一度は経験してみることは、勉強になる。

「里親をやると健康になるか? 病気になるか?」

私は、今75才です。最近は 成長盛りの小学3年生、6年生の男の子と、サイクリングしたり、野球をしたり、元気に過ごしております。里子から遊びをせびられると動かざるを得ません。ドライブ、公園、散歩、一日中 動き回っております。里親は病気をする暇がありません。健康に過ごせます。子どもと一緒に居る緊張感もあります。

 

2018年11月29日

「富士山に、一度も登らぬ、なんとか!」っていいますね!そして、「二度登る、なんとか!」ともいいます。皆さんの中には富士登山をされた方もいらっしゃるでしょう。私も一度登りました。富士登山観光旅行です。両足の親指の爪をはがしてしまいました。

バスが富士山の五合目に近づいて来たとき、バスガイドさんが言いました。「皆さんの中で、何人富士山の頂上まで登られますかね?」バス内には50人ほどがいました。みんな富士山の頂上まで登るつもりで参加しているはずなのに、中には登らない人、登れない人もいるのか?と不安が横切りました。私も安易な気持ちでいたからです。5合目到着、最初から登らない人もいました、8合目まで登って、宿舎で奴隷船の中のような寝方をして、早朝ご来光に間に合う時間に起きて、頂上目指して出発しました。9合目でダウンする人、それ以上登ることを諦める人も出てきました。頂上の明かりを見上げながら、足を踏み外すと転げ落ちて命を落としかねない、暗がりのザラザラの登山道を、前を歩く人の足の運びを見ながらついて行きます。やっとの思いで頂上に着きました。6人の仲間のうち、頂上まで行けたのは2人、私は頂上に着いた途端、身体の震えに襲われ、しばらくガタガタと止まりませんでした。頂上の売店の甘酒に救われ、一息つきました。ご来光バンザイ!を三唱して下山を始めたのですが、途中で5人ほどの救急隊員が担架を持って頂上目指して駆け上っていきました。聞くところによると、熊本から来た団体のメンバーのご婦人が、亡くなられたということでした

どうして、富士登山のお話しをしたのかといいますと、「里親を一度経験していただきたいと思うからです」 素人の富士登山の経験のように、危うさや、大変な苦労もありますが、頂上に登ったあの感動と達成感、登った人だけがわかる充実感があります。

そして、「里親を一度もしない!ということは、社会的養護という最後の里親制度を必要とする子どもたちが、私たちを待っていて、最後のソーシャル・ネットにひっかかった子どもたちを見て見ぬふりをして、無視して手を出して助けようとしないことではないでしょうか?、見知らぬ多くの大人の援助で、今、生かされていることを、有難いこと、感謝なことと思い、具体的に行動で示す事ではないかと思うのです。私は、75才の後期高齢者の初年兵、同じ年齢の里親さんと、「80まで、元気で、頑張りまっしょ!」と、肩をたたき合っています。

年齢を重ねれば重ねるほど、人様によって、助けられ、支えられているという思いが強くなります。

 『新たな絆』 

                   里親Hさん

 8年前のことです

 毎日のように新聞紙上やネットを賑わす虐待や育児放棄。

 その結果幾人もの罪のない赤ちゃんや子供たちが犠牲になってきた。

 声を出したくとも伝わらない

 逃げたくても逃れられない

 この世からはかなく消え去る尊い命の前に。

 何もできない私たち夫婦だった。

 ある日里親制度を知り末の息子も6年生になり自分の仕事も一段落する中。

 児童相談所の里親制度に4月半ば志願した。

 以来研修や実習、見学会をへて6月末市長さんからの登録認定を頂いた。 

 最初は夏休みのはじめ一時預かりの形で小学生の姉妹二人を約一週間養育した。

 家族7人協力してにぎやかなまた華やかな夏休みの始まりだった。

 そして彼女らが帰る日みんなで涙した。

 夏休みが終わる8月末いよいよLちゃん(3歳)とR君(2歳)がやってきた。

 それから我が家の珍道中が再びはじまったのだ。

 現在は三人の里子を養育中、美味しいものを探してさすらっています~~

 

 Lちゃんの卒園式そして号泣』 

 

5年前のことです

 桜の咲き乱れる中里ちゃんのLちゃんと手を繋ぎ園に向かう。

 歩きながら通った二年間振り返る。

 なにより元気でよかった。

 親思いの子でよかった。

 先生思いの子でよかった。

 友達思いの子でよかった。

 優しい子でよかった。

 卒園式も進み卒園状授与。

 卒園状を持って私につぶやく

「私は大きくなったら先生になりたいです」。

 初めて聴く言葉に思わず涙が溢れる。

 おもわず「これからもがんばれ」って声をかける。

 泣いている姿を見られてもかまわない。

 それが里親の誇り。

 お別れの歌が始まると又号泣。

 他の若いお母さんより方より5倍くらい泣いていた熱い夏。

 退場になってもハンカチが離せない。

 保育室に戻り安堵の表情のLちゃん。

 なんかおとなになったな~って感じる熱い夏。

 担任の先生とパチリ

 「一年間ありがとう御座いました」っとお礼を述べると又涙。

 この先生のお陰でLちゃんは花開いたと思っている。

 せんせいホンマありがとう御座いました。

 帰り際在園児と先生方の見送りが

 胸をはって帰るLちゃんを真剣に誇らしく思えることに夫婦共々神様に感謝している。

 ありがたいな~ もったいないな~ けっこうやな~

 最後にLちゃんが一言

 「おとうさん 泣きすぎ

 

『喜びのタネをまこう』--「Mr.Gambajiji Kodomo」シリーズ--
Aさんの「Mr.Gambajiji Kodomo」シリーズを是非お楽しみください。
私はいつもこのシリーズで紹介されるお言葉に圧倒されています。以前の『あなたの子どもはあなたの子どもではない』でもそうですが、今回の『順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ、これもあれも神のなさること、それは後の事を人にわからせないためである。』に改めて強い感銘を受けています。

私の先輩に小笠原浩方という先生がいます。京都の雑創の森「そよかぜ幼稚園」の理事長であり、同志社大学の神学部を卒業した牧師です。この先生と知り合ったきっかけは、その幼稚園の風の園舎と呼ばれる建物です。風変わりな園舎で、屋上には大きな幾つかの風車があり、風が吹く度にゆらりゆらりと動き、風が吹いてるぞ~と穏やかに回るのです。この建物の設計者は六角鬼丈(ろっかく きじょう)、風車は新宮晋(しんぐう すすむ)で、二人とも東京芸術大学の同窓生です。子どもは遊びを通じて、学び、成長する、そして刻々と変化する自然、風、空、雲、雨、水等とのふれあい、遊び体験が重要であるという小笠原先生の考えが活かされています。この園舎は今から50年前、虚空蔵の森と呼ばれる地水火風の理想的な環境の中に、竹中工務店の施工によって完成しました。
さて、話はこれからですが、これほどの一流の設計者、建築公司、素晴らしい環境と条件の整った幼稚園園舎が、キリスト教の牧師で資金もない小笠原浩方先生にどうして可能になったでしょうか?それは小笠原先生が出会ったある人物の支援があったからです。その人の名は鈴木清一さん。「鈴木清一さんで誰ですか?」と思われるでしょう。皆さんもよくご存じの、ダスキン、ミスタードーナツの創業者です。小笠原先生のキリスト教徒であることの清新さと、乳幼児教育にかける情熱に共感した鈴木清一氏は、その園舎建築の資金を提供したということです。鈴木清一氏は、愛知県碧南市の角谷家の六人兄弟の四男として生まれ、三歳で鈴木家の養子となりました。二十歳の頃、肋膜炎を患い養母の愛情に救われたのを縁に、養母の信仰する金光教に入信し、その後西田天香の「懺悔の生活」を読んで京都の一燈園に入って下座の修業の日々を送り、またアメリカに渡ってはキリスト教精神に基づく企業の民主化を進めるDIA(Democracy in Action)運動の創始者エヴァンズ博士の講演に感銘し、親交を深め様々な指導を受けて、会社の発展と経営理念を確立しました。それが、次のように「ダスキンの経営理念」に活かされています。
一日一日と今日こそは あなたの人生が 新しく生まれ変わるチャンスです。
自分に対しては、損と得とあらば 損の道をゆくこと。
他人に対しては、喜びのタネまきをすること。
我も他も物心ともに豊かになり 生きかいのある世の中にすること
合掌 ありがとうございました。
そして、私は次のような言葉も紹介したいと思います。
喜びの種をまこう 幸せの種をまこう
自分のまいた種は自分で刈り取ることになる 誰もが 喜びを与えてくれた人を 愛し与えられたことに お返しをせずには いられないだから、今すぐに喜びと幸せ、愛と やさしさと、おもいやりの種を まいてみましょう
(アイリーン・キャディ)
順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ、これもあれも神のなさること、それは後の事を人にわからせないためである。
(旧約聖書 コヘレトの言葉14節)
金儲けの時代が行き詰まった現代、出光石油の出光佐三の家族経営、東芝のメザシ社長土光敏夫の貧賎にして楽しむ生活、松下電器松下幸之助の人を育てる経営、三愛石油の市村清の闇こそ光が見えるとの経営理念。もう一度振り返ってその著書を読み、日本的経営を考えたいと思うこのごろである。

『お久しぶりのつくしんぼ会』 

                  ――里親Oさん――

〇〇です!
お久しぶりのつくしんぼ会・7月定例会に出席致しました。
懐かしい顔、顔、顔。
家族的な雰囲気にホッコリ致しました。
折良くクラシックのプチ・コンサートも開かれ楽しかったです。
1歳からお預かりの里子ちゃんももう15歳、中学三年生になりました。
泣いたり笑ったりしながら共に成長しています。
そうそう、
そう言えば皆さま里子ちゃんの保険証に未だ困っていませんか?
昔から1度も変更されていないペラペラ紙の保険証、昔は病院の窓口で「取り扱いが分からない」と言われ毎回説明するのが大変でした。
しかし、近頃は大きな総合病院も小さな町医者も尋ねられる事がなくなり不便さを忘れていました。
ところが、先日の出来事です。
近所のとある病院に里子ちゃんを連れて行きました。
そこで例の「ヤツ」の取り扱いが分からないと言われました。
症状と「ヤツ」を医師に説明します、と言い医師の前に座りました。
そしたら!
医師は私を見ようともせず「ヤツ」に目を落としたまま「で!あなたは誰なんですか!」と恫喝されました。
もうびっくりしたのなんのって。
「福岡市の養育里親です」と答え、様々な病院の診察カードを見せました。
そしたら又もや医師は「うちはねぇ!生活保護家庭の人のぉ受付をしていないんですよぉ!!」
と恫喝。
私は里子ちゃんと診察拒否に遭い帰宅しました。
怒りを通り越して悲しくなりました。
「ヤツ」のせいで誤解を受けたのですが、生活保護家庭の方々は日々こんな扱いを受けておられるのだろうか、と。
子ども未来局にこの事を報告すると区の「医療相談窓口があるのでそこに直接相談するのが良い」と言われ南区の保健所に電話をしました。
電話受け付けは女性で終始「はぁー」「あー」「えー」と私の言うことをメモしている様子。
私は「あのー、ここの電話番号は相談窓口で間違い無いでしょうか?」と2回も確認する程の無機質な対応。
でも「ここで間違いないです」と仰せ。
事の経緯を説明しましたが、な、なんと!
「分かりましたぁー」で終わり。
私の名前も聞かず、連絡先も聞かない。
それって「相談窓口?」
私は医師よりこの保健所の対応の方に驚きました。
何のリアクションもなし。
ちーーーん。
電話を切ったものの腑に落ちない。
再度電話をして「さっきの大原ですが、ちょっと貴方の対応はおかしいと思うのですが?私の名前も連絡先も聞かなかったですよね?」と言うと「はい、はい、はい、名前、聞けば良いんですね、電話番号聞けばいいんですね」と投げやり。
私は遂に癇癪を起こし「いい加減にして下さい!」と叫ぶとクスクス笑ってるんです!!
し、信じられない。アンビリーバボー!
でも「相談窓口」の相談窓口は無いし心のモヤモヤは晴れません。
次の日、とぼとぼ出勤していると女性の政治家?が駅で何か配っていました。
私は出来る限り笑顔で挨拶し配り物は頂くようにしています。
何の物でも誰の物でも。
朝から「おはようごさいます」とお声かけされる方を無視するなんて失礼だし挨拶は気持ちが良いから。
駅構内に入り地味なチラシに目をやるとやっぱり議員さんかな?と思いました。
ふと、この人なら相談窓口の相談窓口を知っているかも?と、
又、駅を出てその女性に走り寄りました。
「あのー」と私。
そしたら「さっきの人!」と覚えていてくれました。
「ヤツ」の話と、医師の話と、保健所の窓口の話をすると「私が窓口になります」「お名前を教えて下さい」「連絡先もお願いします!」
これこれこれーーーー!
この対応がふつーーーー!
「近藤さとみ」さんと言う南区の議員さんみたいです。
早速、昼に連絡があって保健所の上長に報告しておきました、との報告があり、笑顔の挨拶しといて良かったぁーとモヤモヤが晴れました。
政治に疎い私ですが議員さんってそんな事もして下さるんですね。
でも頭の回転が良い方で私の話を聞いて直ぐにスパッと一言「問題はこの保険証ですね」と。
彼女、又何かしてくれないかなぁーと期待している今日この頃でした。
モヤモヤしてたら議員さんにご相談もいいかも知れない、
のおはなしでしたとさ。      
おしまい。

『あなたの子どもは、あなたの子どもではない』

                                   --「Mr.Gambajiji Kodomo」シリーズ--

子供について 「預言者」より

あなたの子どもは
あなたの子どもではない
彼らは、人生の希望
そのものの息子であり娘である。
なたは、彼らに愛情を与えてもいいが
あなたの考えを与えてはいけない
何となれば、彼らは彼ら自身の考えを
もっているからだ
あなたは、彼らのように
なろうとしてもいいが、
かれらを、あなたのように
しようとしてはいけない

1975年、辻井正さんは大阪にキリスト教宣教会ジョルダン修道会の援助を受けて、障害児のための教材や玩具をヨーロッパから輸入し、日本に紹介し販売する会社を創立しました。辻井さんは、関西学院大学商学部を卒業した後、文学部大学院に入学し修士課程を修了後、有名な旧西ドイツの障害(児)者施設「ベーテル」にて働き、ケルン大学で乳児の運動神経学を研鑽して帰国した。
辻井先生は社会学博士であり、現在は「辻井正こども総合研究所」の所長として、おもちゃだけではなく、子どもの保育・育児・教育と幅のある活動をされています。日本で初めてのおもちゃライブラリーを大阪で設立した人でもあり、主に障害を持った子どもたちの為の、おもちゃライブラリーの活動は、それから全国に広がって行きました。九州のおもちゃライブラリーもその流れで、北九州のカトリック教会から始まりました。
私は辻井正さんは日本の子どもたちの療育のためのおもちゃの預言者だと思っています。
さて、辻井正さんが会社を設立された頃、私の所にもダイレクトメールが送られてきました。その会社の封筒の右下に小さく書かれていたのが、上にある「子供について」の詩です。作者は、カリール・ジブランです。
カリール・ジブランは1883年レバノン生まれ、1931年ニューヨークで亡くなっています。詩人、哲学者、画家でもあり、ロダンやドビュッジー等と親交がありました。この詩は彼の「預言者」という本の中にあって、アルムスタファという預言者がさまざまな人から、人生についてのさまざまな質問を受け、それに答えるという内容です。子どもを胸にかかえた女が、子どものことを話して下さい、と問うた時、それへの答えです。
私は冒頭の、「あなたの子どもは、あなたの子どもではない」という言葉に出会ったとき、深い感銘を受けました。時代は移っても、親は子供を慈しみ深く育て、世に送り出す大切な役割を担っているだけではなく、神と世にささげる貴い任務を担っているのです。

 

『かわいそうな 子供時代』 −−Mr.Gambajiji Kodomo」シリーズ−−

昔の内閣の法務大臣である谷垣偵一(たにがき・さだかず)氏へのインタビュー記事。これは、2013年に8人の死刑囚に対する死刑が執行され、その事に関しての法務大臣としての感想を述べたものです。

「罪はもちろん憎むべきものですが、非常にかわいそうな子供時代を送った者(死刑囚)がほとんど。こういう生き方しかできなかったのではないかと感じさせる面もあった。」

「私が今まで(裁判)記録を調べてきた限りでは、こんな幸せな子供時代を送ってきたのに、こんな凶悪犯罪を犯したのかという者(死刑囚)はほとんどいなかった。」子供時代、親や大人の庇護を受け、安全して生活し、心身共に護られ、健やかに成長する。そんな子供時代を、家庭や学校、社会は保証しなければなりません。成長、発達という視点に立てば、0才〜15才までの期間を子供時代と言えます。親や大人や社会に依存して生きる時代です。その中で、もっとも重要な時期は乳幼児期といってもいいでしょう。三つ子の魂が養われ、人として生きる基盤を創造する、それは今も変わらず真実です。

福沢諭吉は、初等教育の中心は、「まず獣身を養う」ことと言いました。乳幼児であればまずたっぷりとした自由な時間を自然の中で、ぞんぶんに遊ぶこと、温かく見守られた信頼関係の中で過ごすこと、親や大人は、子供の成長の加勢をする役割があるのです。危機に瀕した子育て環境を、親や大人はあらゆる努力をして護らなければなりません。

 

『幼い子どものこころの共感を育む』 

                   Aさん

夏休みの或る一日、或るシーンを傍観をしながら、シュタイナー教育で言われる共感と反感の教育について、あらためて考えさせられることになりました。

私が川の流れで遊んでいる5人の子どもたちを見守っているとき、一人の屈強な父親が2〜3才の可愛い水着の女の子を連れて水辺にやってきました。母親はそこにはいませんでした。その子は水に入るのを嫌がって、父親の手招きを拒否している様子でした。父親は川に自分の足を入れたり、水を触ったりしてその気にさせようとしているようですが、それは応じようとはしません。熱心に父親は言葉で誘いますが、その子はだんだん大きな声で泣き始め、さらに周辺のみんなにも聞こえるような声で、「オシッコ!頭が痛い!帰りたい!」と地団駄踏んで泣き叫び、「眠たい!」と言っては川岸にひっくり返ったりしました。幼い子が水に入るのを嫌がっている様子はよく見ますが、これ程に頑として拒否する様子は見たことがありません。一方の父親は、心も行動も微動だに揺るがず、感情的にならず、一歩も引かないのにも驚かされました。その女の子は、さらに「抱っこ!」と要求しましたが、父親はそれに応えませんでした。自分の足で、歩いて入りなさい!ということなのでしょう。「入りたい」「じゃ 入ったら」「いや!」、「帰りたい」「じゃあ、帰ったら」「いや!」、「じゃ、お父さんが帰る」「いや!」そんな言葉のやりとりが繰り返されていました。特別にこの子が水を怖がる子どもで、それを何とか克服させようとする父親の親心であったのかどうかは、約15分間の様子ではわかりません。周囲の家族や子どもたちが見ている中で、父親が娘との葛藤をやり抜こうとしたこのようなシーンはそう見られるものではありません。

私は、それが父親の教育方針と子育てへの責任感なのだろうと推察しましたが、そこに強引なほどの父親の意志を感じました。最後まで父親に抵抗して水に入らなかった幼児も、あっぱれと思いましたが。

私はこの一部始終を見聞きしながら、そこに流れている空気はクールな「反感」ではなかったかと思いました。水に戯れている周囲の子どもたちの幾人かは、その空気の異様さに気付き、何が起こっているのかよく理解できないで立ちすくんで見ていたからです。

乳幼児教育では幼ければ幼いほど、全生活の中で「共感」を優先させることが重要です。高橋弘子先生の「家庭でできるシュタイナー教育」の言葉を借りれば、「共感とは、うれしくでしょうがない状態」を創造する教育であると説明されています。いつでも自分の好きなことをやり、そのことが大人から許されて、それが繰り返され、うれしくてしょうがない毎日を過ごしている子どもには「共感」のこころ、I am ok!という自己肯定感が育っていくことでしょう。そして、そのこころが、その幼い子どもの土台=意志を形成して、前思春期9才前後からの他者との人間関係を You are ok!という真の受容のこころに育てると考えられます。「あれをやってはいけない、これをやってはいけない、こうしなければならない!」親の思いや願望、期待や強制、つもり、が強いられること、或は平和に生き、心地よく生活することを許されない幼児は、「反感」をこころの中に充満させ、自己否定と他者攻撃の心を育てることになります。「共感」と「反感」のバランスを取れる人間になるには、乳幼児期の共感充満が重要なことと思います。

 

今月は巣立ち式のメッセージを是非皆さんに楽しんでいただきたいと思います

 

★こぷろ(福岡ユースの会)から「春のピザランチ会」の案内 

 『「ある、ある」みたいな話とかを楽しくできた』  Mさん

巣立ち、おめでとうございます。私は9年前にここを卒業しました。里親さんのところで短大を出るまで過ごし、それから里親さんの家を出て就職したのですが、自立して就職しては見たものの、里親さんの家に帰りたいけど帰れないみたいな自分がいて、なんかこう自分のことがうまく整理できていないとか、もやもやしている時期が長く続いていたんですね。そんな時に、何年か前に卒業した先輩に会ってお話しした時に、なんかこう、「うまく言えないけど分かる」とか「ある、ある」みたいな話とかを楽しくできたことが、私の中で結構、思い出になっていて、そういうご飯を食べながら気軽にいろんな話ができる、そんな会が出来たらいいなと言うのがあって、こんな会ができました。できれば参加してみ

てください。巣立ち、おめでとうございます。

 

★会長挨拶 『みんなで知恵を出し合って、応援したい』

 この度、18歳の門出を迎えられた皆様、本日はおめでとうございます。皆様はこれから先、自分の力で新しい世界に向かって羽ばたこうとされています。その新しい世界には、皆様の夢と希望を実現できる沢山のチャンスが待っていると思います。しかし、いい時ばかりとは限りません。どうしていいかわからない時、嫌になって投げ出したくなる時もあるでしょう。そんな時、一人でくよくよせず、どうぞ里親さんに気軽に相談してください。意外と簡単な解決方法があったりするかも知れません。里親さんの後ろには、私たち里親会の仲間もいます。みんなで知恵を出し合って、応援したいと思っています。それから悩んでいない時、順調で忙しい時、せめて一年に何回かは近況報告をお願いします。私たちも

頑張っているあなた方のお話を里親さんから聞いて、ともに喜び合いたいと思います。よろしくお願いします。最後になりましたが、藤林所長様を始め子ども総合相談センターの皆様、赤坂ライオンズクラブの越智様、菅様、長様、横山様、原中様、その他この式典に出席いただいた皆様、お忙しい中、大変有難うございます。今後とも末永く、子どもたちの応援をよろしくお願い申し上げまして、会長の挨拶といたします。

 

★来賓赤坂ライオンズクラブ様祝辞 『立派な社会人として』

この度は18歳の節目であります巣立ち式、誠におめでとうございます。簡単ではありますが少しお祝いの言葉を述べさせていただきます。先ほど9年前に卒業された先輩の方がお話しされて様に、これから巣立って社会に出たり、また学生生活が始まったり色々あると思いますが、今まで以上に社会の壁、困難があると思います。そこでいろんな悩みがあったりすると思いますが、乗り越えて元気いっぱい、立派な社会人として頑張っていただきたいと思っております。また、今日座っておられる子どもたちの良き先輩として今後活躍していただけることが、皆さんたちの喜びになると思います。ここに来られている方への感謝の気持ちと、いつの日か恩が返せるように精一杯頑張っていただきたいと思います。微

力ではありますが、私たちライオンズクラブとしても皆様方を応援していきたいと思っています。そして皆さんが活躍する姿を私どもも楽しみにしていますので、ぜひ頑張ってください。本当におめでとうございます。

 

★藤林所長挨拶 『ここのつくしんぼ会の事を忘れずに』

本日はご卒業、また進学、就職おめでとうございます。里親さんには年に1回か2回お会いしてますけど、子どもたちはこの人だれかなって思っているかもしれません。けれど私は皆さんの事をずっと毎年2回ほどですが見てまいりました。今日巣立ち式でKさんYさんも、ずっと以前、里親会のいろんな行事で、ああ来てるなと言う風に顔を見ていたんですけど、今日、久しぶりにお会いしまして、立派な大人になってるなあ、と思ってびっくりしました。Hさんは美人さんになってらっしゃるし、Aさんはイケメンになっていてすごいなと思ったんですけど、これも里親さん、養親さんの一生懸命育てていただいたおかげだと思います。本当に感謝申し上げたいと思います。またR君もビデオでどんな姿が見れるのか楽しみです。ここに至るまで、18歳になるまでの子ども時代にいろんな思い出があるんじゃないかと思います。里親会の行事、新年会やキャンプにも参加されたんじゃないかと思いますけども、様々な思い出が、これから社会に巣立っていく時の支えにもなっていくんじゃないかと思います。社会人になっていろんな辛いことがあった時にでも、子ども時代に福岡でこんな経験をしたんだということが、何か支えになってくれたらいいかなと思います。今から大学、または就職というところで、また社会人として色々な経験を積んでいかれると思うんですけれども、もっともっと沢山の楽しい経験、またいろんな思い出を紡いでいただいて、もっともとお立派な大人になっていかれることだと期待しております。

冒頭にMさんからお話がありましたけれども、9年前ここを巣立っていかれて、大学を出て就職されて、9年ぶりにここに帰ってこられて、ああすごい感動的やなと思ったんですけど、もしR君もKさんもA君も、もし機会があれば、ここのつくしんぼ会の事を忘れずに覚えていてもらって、何かの機会の時に自分の姿を、この子どもたちに見せていただきたいなと思っています。頑張っていくと、こんな風に夢も希望もかなっていくんだというところを、ぜひ子どもたちに見せていただけたら有り難いなと思います。本当にここまで育てていただきました、里親さん、養親さん、里親会の里親さん、またこどもたちも、本当にありがとうございました。おめでとうございます

 

★『有難うございますの一言では表すことができません』 里子A君

福大大濠高校を卒業し、4月から福岡大学の薬学部に行かせていただきます。父と母にはとても感謝しており、有難うございますの一言では表すことができません。昔からさまざまなことで迷惑をかけてすみませんでした。塾での成績についての面談や、学校での喧嘩など数えきれないほどあります。これから先お金の面や、様々な面でまた迷惑をかけてしまうことがありますが、その時はよろしくお願いします。また今やってもらう事、今まで自分がやってもらっている事が当たり前だと思って生活してきた事を考え直して、自分で何でもできる、そういう大人になれるように、これから生活していきたいです。最後になりますが、両親が思い描いていたような息子には慣れていないと思いますが、自分なりに生きて行こうと思いますので、ご支援のほど、よろしくお願いします。

 

★『とっても私たちはAを迎えられた事を幸せに思っています』 里母Yさん

本日は沢山の方にお祝いしていただき、有難うございます。息子に一言、A君へ。2001年4月、家族全員でA君を迎えました。その日は平和五丁目の桜並木が満開だったのを思い出しました。Aの名前は主人の実家近くに祀られている大杉のように真っ直ぐ大きく育つようにと、杉の字を入れ、下の字は今は無き祖父より一字をいただきました。祖父は「Y家の男の子だ」ととても喜び、病にて入院していてもお見舞いに行くよと言うと、「Aがいつも大好きなものを買いに行く」と病院を抜け出そうとしたこともありました。一番に可愛がってくれていた祖父の事を、いつまでも忘れずにいてください。幼少の頃より、スポーツが大好きでサッカー、少林寺拳法、陸上、バドミントンと練習や試合のたびに、家

族全員で応援に出かけ、楽しい思い出ができました。中学生の時「将来は医療の道か、スポーツ選手になりたい」と手紙をくれましたね。大切に今もしています。あの頃から先を考えていたんですね。福岡大学薬学部で六年間勉強することも大切ですが、一生の友達を見つけて、楽しい大学生生活を送ってください。また、今までもこれから先も、沢山の人に助けていただくことが多いと思います。感謝の気持ちを常に忘れずに、歩んでいってほしいと思います。とっても私たちはAを迎えられた事を幸せに思っています。有難う。

 

★『C家の一員にしてくれて有難う』 里子Hさん

ママとパパへ。小学2年生6月からの約11年間、育ててくれて有難うございます。パパとママの子どもになれたおかげで、沢山良い経験をすることができました。パパとママが聴覚障害を待っている方だと知った時、何故か不安には思わず、そんなことも気にせず、この方たちの家族になりたいと思ったのを、今でも良く覚えています。一緒に暮らし始めて、早速喘息にかかって入院したり、初めて小学校に行く時、電柱につかまって「行きたくない」って泣いたり、他にも沢山、迷惑かけましたね。そして何より、パパとママとコミュニケーション取れるようになるためだけに覚えた手話は、今後社会に出てとても役立つものだと思いました。良い機会を与えてくれて、本当に有難う。他にも陰で私をいつも支えてくれましたね。パパ、いつも家族のために一生懸命働いてくれて有難う。ママと喧嘩した時、仲介役に入ってくれて有難う。仕事大変なのに、送り迎えをしてくれて有難う。ママ、毎日おいしいご飯を作ってくれて有難う。朝早く起きて、お弁当作ってくれて有難う。お弁当があってこそ、毎日頑張って学校に行くことができました。最後になりましたが、東京の大学に進学するって決めた時も、心配しつつ「頑張っておいで」って応援してくれて有難うございます。ママに関しては、心配のあまりかすごく干渉してき、最近喧嘩ばかり、いや毎日して、ひどいことばかり言って、我儘ばかり言ってごめんなさい。こんな私をここまで育ててくれて、本当に感謝しかないです。離れてからも心配すると思うので、長期休みの時は近況報告と元気な顔を見せに帰ってきます。その時はよろしくお願いします。C家の一員にしてくれて有難うございました。大好きです。

 

★『感謝を忘れずに、里子として誇りを持って』 里親Cさんご夫妻

小学校一年生の三月に初めてお会いしました。聞こえない私たちに、どうコミュニケーションを取ったら良いのか、緊張していたのを覚えています。最初は筆談から始まり、会うたびに、手話を覚えたほうがノートとペンが不要になることを悟り、2か月後に手話の一部である指文字を三日で覚えたことは、びっくりしました。体が弱く喘息がひどくて、入院し学校を休みがちでしたが、中学校から徐々に丈夫になり、高等学校に入学した後に、「高校三年間は休まず頑張る」と宣言して、本当にやり遂げて、皆勤賞を貰ったことは驚きました。私たちが耳が聞こえないことで、電話を代わりに対応したり、外出の時には手話通訳をやってくださり、色々と不便な思いをさせていました。有難うございました。同居している、気難しく偏屈なおじいちゃんに対しても我慢してくれました。里親として、至らないところも一杯あったと思います。11年間、ここまでこれたのも、友達、学校、里親会、ケースワーカー、里親専門対応員の方々の、周りの支えがあってこそです。感謝を忘れずに、里子として誇りを持って、自分を大事にして充実した大学生活を送ってください。そして、楽しいことだけでなく辛いこと、困ったこと、不安な事、色々なことにぶつかっていくことと思います。困難をクリアして、成長していく姿を見ることが出来たら、私たちは嬉しいです。ずうっと見守っています。

 

★『僕のために、こういう会を開いてくれて有難う』  里子R君

今日は僕のために、こういう会を開いてくれて有難うございます。今後は社会人として、働いていこうと思っています。時間があったら、ここにも顔を出しに来ようと思っていますので、今後ともよろしくお願いします。

 

★『私も一緒にR君が社会人として成長していけるよう』 里母Mさん

三日四日で私と二人で荷物を運び出し、五日から新たな生活をスタートさせています。四月から勤めるところも決まりまして、やっとちょっとほっとしています。出会ってから16年が経ちました。私は西区に住んでいて、彼は東区に転居したので、私とは離れたんですけど、私の実家のすぐそばになりまして、そのことはR君にとっても安心要素の一つであるみたいです。まだまだ今後も、措置解除にはなりましたけれども、通院の付き添いだとか何だとか、まだまだ私は合う機会があると思うので、私も一緒にR君が社会人として成長していけるように見守っていきたいと思います。今日は皆さん、有難うございました。

 

「言葉と出会う」

                       里親 Aさん

私は、いろいろな先生との出会いから、その道が示されてきたと思う。そして、その出会いとは先生の言葉との出会いでもあった。2016年3月と11月に尊敬する二人の元大学教授が亡くなられた。その一人は、猪城博之先生、もう一人は後藤泰二先生である。
猪城博之先生は、九州大学や西南学院大学で、哲学(論理学)を教えられ、熱心なキリスト教の信徒でもあった。私の高校、大学の同期で加藤高穂牧師の福岡アサ会という教会の会員であった。その教会の機関紙「アサ便り」が定期的に送られて来るが、その便りで先生の訃報を知った。そこには教え子の追悼文が記載され、数々の思い出が書かれていたが、その一つにこんな記事があった。ある授業時間に、先生が学生に、「君たちは10回以上繰り返して読んだ本があるか?」と聞かれたというのである。考えさせられる質問である。手を上げた学生がいたかどうか分からないが、それを読んで、私自身に問われたような気がした。そしてこの質問に触発されて、私はとっさに残された人生の時間で、聖書を1
0回読みたいと思った。考えると、私には10回以上読んだ本があった。それらは本といってもさほどぶ厚いものではなく、手の平に載る簡易な詩集と箴言集である。どんな本であっても、出会ったものを10回以上読むと言うことは、その人にとって非常に大切な本であるという証しであろう。長年、幼稚園で幼児教育に携わり、お母さんや父親また保護者の話に耳を傾け、子どもの成長に重要な事は何かと自らに問うてきたが、この二冊の本には隠された知恵の言葉があると思えたので、手放さなかった。
その二冊とは、「母と子の詩集」周郷博著、「預言者」カリール・ジブラン著 である。
さて、あなたには10回以上読んだ本が、いや、これから10回以上読んでみようと思う本があるだろうか? 私の大切な二冊から一つの詩と一つの箴言を紹介してみたい。

・疑い深さを知らぬ子ども     ウイリアム・ワーズウォース

疑い深さを知らぬ子ども ~~~
軽やかにその身体が息づき、
手足のすみずみまで生命(いのち)を感じている、
そういう子どもが、どうして死なぞというものを
知っているはずがあろう!

・子どもについて         カリール・ジブラン

あなたの子どもは、あなたの子どもではない。
彼らは、人生の希望
そのものの息子であり娘である。
あなたは、彼らに愛情を与えてもいいが
あなたの考えを与えてはいけない。
何となれば、彼らは彼ら自身の考えを
もっているからだ。
あなたは、彼らのようになろうしてもいいが、
彼らを、あなたのように
しようとしてはいけない。

「七五三の写真撮影」
                   里親Tさん
全国社会福祉協議会より、七五三の思い出作りに助成金をいただけるということで次男が7歳で対象のようなので、スタジオアリスに写真を撮りに行きました。
長男の時には、機会を逃し撮れずじまいで時が過ぎました。(現在9歳)
今回の助成金で背中を押され、スケジュールを調整し
11月26日(日)夕方の4時半 から撮影に行きました。
長男を預かり3年4か月、次男を預かり1年3か月。
兄弟二人が再会し、同居を始めて1年3か月が経ちました。
大人になったときに懐かしい思い出になるかと兄弟二人に同じ枚数の写真を贈りました。
また、始めて家族写真をとる事が出来て私たちにも良い思い出となりました。
二人は初めて和服を着て、とても嬉しそうでした。
また、スタジオでも、いろいろな小道具で
素敵な写真を撮ることができました。
この写真をコピーして、平成29年度のえがお館の保存用写真にしました。
皆さんよろしかったら、見てくださいね。


 

『差別のない、包括的社会』

 

                 Aさん

南区長住に梁井小児科という病院があります。今は二代目のお医者さんですが、初代の先生は梁井昇という九州大学の医学部を卒業された先生でした。奥様の梁井迪子さんは同じく九州大学の教育学部を卒業され、教育相談や育児相談の専門家であり、また高宮アミカスの館長もされました。今でいう男女共同参画推進運動のリーダーとして活躍されました。

 

さて今から40年前、開園早々の幼稚園に梁井昇先生から電話が入り、一人の女の子を入園させて貰えないだろうかという相談がありました。その子は、お母さんが妊娠中に風疹に罹患したため、幾つかの障害を持って生まれた子どもで、誕生後その病院に通院していたのです。実際にお会いしますと、身体も弱く、そして難聴と視力障害があり、口蓋裂で発音が不明瞭なお子さんでした。幼稚園の先生達にこの話をして、未知の世界でしたが、受け入れることを決めました。

 

それには少し訳があったのです。当時このような障害を持った幼児を受け入れる幼稚園はありませんでした。しかし福岡市内にただ一つ、西南学院付属の舞鶴幼稚園だけは積極的に受け入れていました。舞鶴幼稚園はキリスト教保育を通して、思いやりの心を培いながら個性豊かにのびのび生きる力を育むという教育目標を掲げて、その一環として障害を持つ子どもたちとの統合保育の実践に取り組んでいました。その報告集が出版され、健常児も障害のある子どもも、共に保育を受けるという理念を謳っていました。いつか、そのような保育の実践をしたいと鼓舞されたのでした。そのような教育を、Integrated  Education(統合保育)と呼んでいました。Integrateとは、まとめる、結び付ける、融和させる、差別しない、という意味があります。つまり、どんな子どもも平等、公平で差別されてはならない、たとえいかなる障害あっても差別のない共同教育を目指すというものなのです。キリスト教保育を根本に置く幼児教育という共通点から、舞鶴幼稚園は私の目標でもありました。

 

初めて受け入れたこの女の子は、一年間の保育を受けて卒園していきました。この子が私の目指す統合保育の門を開いた最初の子どもでした。それ以来、100人近い障害を持った子どもたちが統合保育の現場にやってきました。当時の先生達には大変な苦労を掛けましたが、又それによって素晴らしい出会いを子どもたちは与えてくれたのでした。

 

その中で、一人のTくんという子どもを紹介したいと思います。Tくんは健常で生まれたのですが、幼い間に腹膜炎を起こし、医療ミスから脳性マヒとなり、歩くことも出来ませんでした。けれども幼稚園はT君の兄弟と同じように幼稚園に通わせたいというご両親の希望を受け入れ、2年半の間専属のケースワーカーがついて通園し無事に卒園しました。その間にお母さんは父母の会の会長も引き受けられ、一生懸命幼稚園の為に尽くして下さいました。あれから30年後の今、「NPO法人障がい者・より良い暮らしネット」の代表をしておられるのが、Tくんのお母さんです。

 

先日その法人が企画した研修大会に参加したのですが、その大会のキーワードは、Inclusive Educationという言葉でした。この意味するところは、包括的に社会全体がつながり、すべての人を開放させる教育を求めていくと言うことでした。それは障害を持った人々の生活を守るには、社会全体の新たな在り方を考えていかなければ解決に結びつかないし、閉塞感を漂う世の中で全ての人が人間らしく生きる為には、包括的に全ての分野を結びつけていく必要がある時代が来ていると考えるのです。

 

障害のある子どもに手を差し出すことは、全ての分野とのつながりと協働を促すことになる、という必然性を考えられています。

 

『Ayaちゃんへ』
                                                                          Yさん

あれから約2年半がたちました。今でもあやちゃんのことを思い出すと涙があふれてきます。あやちゃんとは、小さい頃からずっと仲良くさせてもらっていたね。最初あやちゃんと出会ったのは8年前の和白グループホームだったんだよ。そこで一緒に海水浴を楽しんでいたんだって。全然覚えてないよね。うちだって覚えてなくて、ママに聞いて驚いたんだよ。本当あやちゃんは色んな人から愛されていたん。けどさ、あやちゃんはさ、少し心配しとったことがうちはあったんよ。それはね、つらい時や、苦しい時もずっと笑顔だったってこと。これは一番うちの中でずっと心配しとったこと。「本当に大丈夫なんやろうか」とか「つらくないんやろうか」とかずっと会うたびに思いよった。けどさ、あやちゃんは
いつも会うたびにさ「全然大丈夫」とか「学校楽しい」とかずっと笑顔で語ってくれよった。うち正直思いよった。「うちの前では泣いていいんよ」とか「うちの前で素のあやちゃんを見せてほしい」って。けど、なかなかその言葉が言えんでずっと考えよった。けど一瞬だけ相談してきてくれとたね。ずっと皆に内緒にしとったこと、それはあやちゃんに唯一好きな人ができたことやったね。「Yちゃん聞いて、あやね、好きな人が出来た。どうしよう。」って相談してきてくれた。この時、初めて見たあの顔。涙ぐんでいた顔。本当今でもあの顔は忘れられん。うちはずっと「頑張れ。」って応援してた。あの後はちゃんと好きな人との夢は叶ったかな?叶ってることを祈っとくネ。

それからそれから、話は変わるけど、あやちゃんの良い所を言っとくネ。あやちゃんは本当に優しくて、明るく、元気な性格でした。中学校の入学式、あやちゃんは笑顔で写真とっていたネ。部活も頑張っていたネ。でも、その矢先、1本のメールが届いてきた。「あやちゃんが徳洲会に入院。緊急搬送された」ってことが。その時、「うそやん。そんなことありえん。すぐお見舞いに行く」ってママにずっと言いよった。けど、その日、うちは普通に学校に行って帰り、「ただいま」と大きな声で玄関の扉をあけたらママがパソコンに向かって座っていて、いきなり「Y、座って」って「大事な話がある。悲しいお知らせがある」って言われて何気なく座った。そしたら「あやちゃんが亡くなった」って言われてはじめは現実を受け止めきれなくて、「今すぐあやちゃんに会いに行く」って言った。1分くらいして、涙があふれてきて、立ち上がれんくて、もうあやちゃんに会いたいしか頭になかった。でも、最後に耳にしたことがあったん。「最後にあやちゃんの左の目から涙が出てきた」ってこと。本当このことを聞いただけで、また、いっきに涙があふれて30分くらい玄関の前が泣き崩れてしまったん。本当に悲しくて、その夜は本当に寝れんかった。けどうちは思ったん。「あやちゃんの分も頑張らないといかん」って。そう、泣いてばっかりはいかん。そう決めました。あやちゃん、長くなったけど、これから先もずっと天国ノ空から皆のことを見守っていて下さい。そしてこれからもあやちゃんの分まで頑張ります。あやちゃんのように皆に優しい人になります。

「柔道部の練習中の事故で娘を亡くした父親の独り言」

                         里親Oさん

柔道 危険な技 大外刈り
この技で重大事故となったケースが極めて多いです。
私の娘も大外刈りをかけられ死亡。
平成28年の館林市と大田原市での事故も大外刈り。
さらに過去にさかのぼっても、

大外刈りをかけられ死亡した事例は多数あります。
今から30年以上も前の事ですが、

当時無敵を誇っていた有名柔道選手が蟹ばさみという技で大怪
我を負いました。
この時は、早急にこの技の是非を問う話し合いが行われ、

後に禁止技となりました。
一方で大外刈りは、何人もの尊い命が失われているにも関わらず、注意喚起や指導改善を繰り返すだけ。
この対応の違いはなぜ?
大外刈りを全面的に禁止技とするのは難しくても、「小中学生に限っては禁止」とするなど何か具体策は打てないのでしょうか。
柔道及び学校関係者の方々が安全対策に力を尽くしている事はわかります。
がしかしこれでは、「命の重みは人によって異なる」と考えているようにしか

受け取れません。
このような言い方をすると、辛辣を通り越し、もはや無礼にあたるのかもしれませんが、一人の遺族としてはそう思えてならない。

『楽しい夏休みです』 

                                                            里親Mさん
C君が我が家にきて、3度目の夏を迎えました。 
わがままいっぱいで、甘えん坊で、本当に愛しい存在のC君です。 
ただC君、今夫が3ヶ月の入院から帰ってきたばかりで、

嬉しすぎて落ち着きません。
足の骨切り手術ですので、予後はいいのですが、リハビリの為の長期入院でした。 夏休みと共に自宅療養になったので、C君は留守家庭もやめ、 「朝から晩まで一日中とうさんと遊ぶぞー」と入院中から張り切っていました。
嬉し過ぎて、吃音がひどくなったり、 いたずらやおふざけがひどくなったり、 ニヤニヤが止まりません。なんと食欲迄落ちてしまいました。 
食べるより遊びたいが先にたってしまっています。
でも毎日夫と遊んでニコニコ(o^-^o)です。
夫はへとへとだーといいつつ嬉しそうです。
かくいう私も仕事と家事と、そして男二人≪いう事きかんちん≫ばかりで、ヘトヘトです(笑)
仕事から帰ってきて、部屋に入ると大変な事になっています。
ですが、ニコニコと楽しそうに笑いあう二人、私から注意されて、
ほんの少し反省する二人、「おれはとうさんに似てるからグータラだ」というC君を見て、 吹き出しそうになりますが、 幸せな気持ちでいっぱいです。

 

今年も我が家は楽しい夏休みを過ごしています。

熊本地震から1年がすぎました。

                                                                里親Kさん

今年もゴールデンウィークが終わりましたね。我が家では昨年のゴールデンウィークのことを思い出し、懐かしいね。と夫と先日話し合ったことがありました。我が家の実子である双子の娘たちは、昨年3 月熊本の大学を卒業したのですが、そのとたんの熊本地震だったのです。周りから「幸運だったね。」と言われるたびに申し訳がないような気持ちになったものでした。
彼女たちが熊本での生活の楽しむことができた背景には、熊本で大変お世話になったYさんという里親さんの存在がありました。Yさん宅の小学生の子どもさんに学習支援(とは言っても名ばかりでしたが)をしていた娘たちをとてもかわいがってくださっていたのです。とても素晴らしい里父さん里母さんで、特別養子縁組されたお嬢さんを育て上げた後、里親として手を挙げた方々で、子どもさんたちを愛情深く大切に育てる一方、自立に向けてもしっかり道をつけていけるように考えられていました。そのためにはどんな苦労をも厭わないその献身的な子育ての姿勢は「お母さんの里親生活を見ていても好きでやっているんだな。くらいしか思わないけれど、Yさんを見ていると、里親さんって本当に立派だと思
う。私も将来こんな子育てがしたい。」と娘に言わしめておりました。
さぞお疲れだろう。ゴールデンウィークに遊びにいらっしゃいませんか?せめてお子さんだけでも。とお声掛けしたところ、最初は固辞されていたのですが、続く余震でお子さんも疲れている様子で、では少しだけお願いします。とのことになりました。Yさんが子ども二人お世話になるのはあまりにも申し訳ないから熊本児相にレスパイト制度が使えないかお願いしてみる。とおっしゃっていて、初めてのことながら双方の児相のスピードは鮮やかであっという間にレスパイトが適用できるとのことになりました。
実際にはYさんが遠慮され、2泊3日という短い期間でしたが、余震がない3日間をみんなで楽しみました。とても素直で優しい兄妹で、大好きな回転寿司(その時期生ものは食べられず、熊本のお寿司屋さんは閉まっていたそうです)を堪能し、また熊本では、学校や公園を始めあらゆる施設が、避難所になったり閉まっていたりしていたため、外遊びができる施設を巡り、いっぱい体を動かして元気に帰っていきました。4年間慣れ親しんだ「K先生」が一緒だったせいか、心配していたYさんと離れた寂しさもあまり感じなかったようでした。
また里子同士の交流も見ていて面白いことがありました。その時期、実親さんとの交流に気がすすまなかった我が家の子どもたちに「私たちはお母さんがどんな人なのかも知らない。会えるなんてうらやましい。」と話してくれたようで、「お母さんに会えるって羨ましいと思ってもらえるんだ。」と納得していて助かりました。お子さんたちに「次は夏休みに」と誘いましたが「ずっと学校が休みだったからたぶん僕たちに夏休みはないと思うんだ。」とのことでした。(なんとそれどころか、夏休み以降の授業は毎日6時間ぎっしりだったそうです)
相変わらずYさんが大好きな娘たちは、今でも折に触れて熊本に遊びに行きます。娘たちが何を話しても何をしても喜んで面白がって耳を傾けてくださるようです。縁もゆかりもない娘を受け入れ、いまだに温かい居場所になってくださること。私たちもお付き合いさせていただいていますが、本当に誠実で優しく飾らないお人柄で心から尊敬申し上げています。
こんな風に、里親をしていなかったらとても知り合えなかったであろう素晴らしい方々に出会えるのもまた里親の醍醐味だなと思う今日この頃です。
熊本地震から1年。今回のことを何かの形で文章に残したくて書いてみました。

週末のお出かけ《助手席編》

                                                里親Tさん

最近助手席に乗るようになった4年生のK君。この日も「俺前に乗る~」と、20年近く乗ってる我が家の車には子供の楽しめそうな装備がありません。車でのお出かけには、しりとり、歌を唄う、兄弟で遊ぶ(喧嘩)そんな過ごし方。出発して間もなく太陽の日差しが「眩し~い」と一言、二言、三言…「そうやね~」と私。退屈そうな子供達すると2年生の妹Aがなぞなぞの提案「いいね~」と私。が、なぞなぞの出題に底つく。ならわたしのスマホからなぞなぞを出題。「一番簡単な」…からやっているがとても難しくなかなか謎解きが出来ず、「面白くな~い」とK。「そうやね~」と私。「子供の歌を聴きた~い」とK、だがスマホ充電残量が微妙「ごめん、充電があんまり無い」と私、「もう何で~退屈~もう帰りた~い」とK。又始まったよ…と思いながら「そうやね~」と私。その後一度コンビニに寄り目的地に無事到着(汗)
帰り道…「帰りは私が前に乗りたい、お兄ちゃん帰りはAに代わってね」とA。「何で帰りも俺が乗るんやけん」とK。「お兄ちゃんは行きに乗ったんやけん帰りはAだよ~」とA。「俺が乗るんやけんAは乗るな」とK。「お兄ちゃんは行きに乗ったけん帰りはAだよ」と私。ここでしばらく2人でやりとり(口喧嘩)させていた。「お母さんお兄ちゃんが~」となる、そこで私の出番なのだが…こういう時どっちもどっちという時もある、だが今回はKだよな~と「行きにKは乗ってるんだから帰りはAに代わってあげなさい」と私「イヤイヤイヤ~」とK。「何で何時もこうなるんだろう」「もう勝手にし~」と思う私。「いい加減にせぇ~」と主人。大きな声で怒鳴ってKを車に乗せました。あ~あどっと疲れました(汗)

『三年間の三姉弟』

                        里親Iさん
我が家の末っ子の男の子が1歳になって数日後、突然2歳と3歳の姉妹は、やってきました。その当時上に5歳の女の子、6歳の男の子がいて一気に賑やかな我が家になりました。
末っ子の男の子にしてみたらいきなりの年上の子どもたちの出現に生後5か月で6歳の男の子が来たときには赤ちゃんだったけど、赤ちゃん返りをしていました。そして、2歳3歳の姉妹が来てからは歩く気配もなくなり、1歳の男の子が歩き始めるまでにはここから10か月の月日を要することになりました。今にして思えば家庭にいたら兄弟姉妹は下にできるもので上にできることはありません。赤ちゃんにしてもかなり複雑な心境だったことと思います。それでもいつでも一緒の姉妹の性格ではないんです。面倒見がよくって優しい姉、そして自由奔放でユニークな感性をもった真ん中、そして甘え上手な末っ子と言う構図がいつのまにやら出来上がっていました。
そして昨年度は三人揃って幼稚園に登園していました。年長、年中、年少の三人。朝、幼稚園バスに乗る時には笑顔の末っ子も幼稚園で外遊びの後、体操をしてそれぞれのクラスに戻るときに「Rちゃんがいい」と言って大泣きしていたそうです。初めのころはクラスの列ではなく年長のお姉ちゃんの横に並んで立っていた末っ子です。二人のお姉ちゃんは幼稚園に着いても末っ子の面倒を見ることに余念がなく、着替えなども部屋まで行って手伝っていたようです。しかしある日、末っ子の担任の先生に「着替えを手伝ってはだめ」と言われたようで帰ってくるなり「Yの着替えを手伝ったらダメって言われた」と落ち込んで帰ってきたお姉ちゃんでした。担任の先生には「お姉ちゃんが何でもしてしまうのでY
くんは何もできない」と言われました。それからは二人でYの着替えが終わるまで部屋のドアにへばりついて見守っていたとのことでした。またある日、年長のお姉ちゃんの用事でお姉ちゃんだけ早退して連れて帰っていたところずっと園庭を見ながら「Y大丈夫かな?Y大丈夫かな?」と言うお姉ちゃんでした。
この頃の三人は幼稚園でも一緒に遊び、帰ってきて家の中でも一緒に遊ぶ。外に行っても一緒に遊び、お姉ちゃんが友達の家に遊びに行く時にはもちろんついて行ってました。どこに行くのも遊ぶのも片時も離れることなく一緒の三人でした。
そんな三人の別れは突然やってきました。二人姉妹が実家庭に帰ることになり、末っ子だけが残されることに。末っ子は二人が外泊をするようになってからずっと「Rちゃん、rちゃんがいないと嬉しくない」と言って泣いていました。そして二人がいなくなった次の日からおねしょが始まり、指しゃぶりまでするように。そして食欲もなくなった末っ子。指しゃぶりは2週間、おねしょは1か月。そして食欲が戻るまでには半年以上かかりました。今は、元気を取り戻したように見える末っ子ですが、喪失感はそう簡単には埋められないようです。強いつながりをもった三人ですがそのことで末っ子がつらい思いをしたのではと考えることもありました。どうしようもないことと言われればそれまでですが、どこ
かにやるせない思いが残りました。もうすぐ末っ子の下に新しい妹が増える予定です。これからも様々な葛藤を抱え、闘っていくことになるんだろうなと思いつつそれでも三姉妹のような絆をつくって欲しいと思えるようになったこの頃です。
わずか三年四か月だけの三姉弟でしたが実の姉弟に負けないつながりで思い合っていた三人。どこかでお互いに喪失感だけでない思いに変わってくれることを願わずにはいられません。

              巣立ち式

会長挨拶
『里親孝行をして上げてください』
朝、庭をながめると、今年もサクランボの木にたくさんかわいらしいピンクの花が咲いていました。
さて、この度、社会的養護の節目である巣立ちの18歳を迎えられた4人の皆様、新しい門出を迎えられ、おめでとうございます。
皆様は、社会で活躍する道を選ばれた方、もうすこし専門の知識や技術を習得するために、専門学校や大学に進まれる方、それぞれ自分に合った道を選ばれたと聞いています。
18歳と言えば、運転免許もとれます。選挙権もあります。近い将来「成人式」は18歳ナンテことになるかもしれません。そんな事を考えると、18歳は、もう「大人の入口」とも言えます。 今まで皆様は、里親さんを始め、たくさんの人たちに守られてきました。進むべきレールもある程度ひいてもらっていました。これからは、今までと違い、自分で選び、自分でレールをひいていく。そして責任を持って、一歩一歩選んでいくことが多くなると思います。
充実する反面、戸惑うことにもたくさん出会われることでしょう。でも、今日見たかわいらしい桜の花のように、一年のほどんどを淡々と静かに過ごしつつ、自分の大切なその時になると、穏やかに自分の力で、少しずつ花を咲かせ、やがて実をつける、そんな、一人一人自分らしい未来に向かって進んでいってもらえたらと願っています。それでも、大変な時には、自分一人で抱え込まず、里親さんやまわりの信頼できる人たちに「助けて」のサインをぜひ出してください。里親会も応援しています。それから、藤林所長様、奥田課長様、赤坂ライオンズクラブの皆様、その他、たくさんの関係機関の皆様、お忙しい中をご出席頂きまして大変ありがとうございます。今後共、末長く、この子どもたちの応援をよろしくお願いいたします。
最後に、4人の皆様へお願いです。
今すぐでなくても皆様は、いずれ立派に自立し、自分の生活を持たれると思います。時が過ち、生活が忙しくなると連絡が途絶えがちになってきます。
ピンチのときは勿論ですが、順調な時も、年に何回かは、里親さんに連絡を入れて里親孝行をして上げてください。親は、それが、一番安心であり歓びなのですから、よろしくお願いします。

 

『私達はあなた方の応援者です』
本日、すだち式を迎える皆さん、おめでとうございます。あなた達は、里親さんの家庭で、愛情一杯に育てられ、この春、次のステップへと羽ばたいていかれます。社会人として、また大学、専門学校へ 「夢へ」 向って飛び立ちます。私達はあなた方の応援者です。いつでも頼ってください。 迷ったとき・寂しくなった時・傷ついたとき、私達は常にあなた方の事を思っています。ここにいる皆がサポーターです。一人ではない事を胸に、羽ばたいてください。ここに皆さんの未来を祝して 「お祝い金」 を里親会・会長に託します。本当におめでとうございます。
すだちの基金 理事長 M様

 

           里子と里親のメッセージ交換
(1) A家《里子Yちゃん》
『高校三年間は遅刻、欠席もせず、皆勤』
私は小学1年生なる直前に施設に来ました。最初はなんでお母さんと離れて暮らさないといけないのかと思い、泣いていたことを覚えています。少しずつ過ごすうちになんとなく理由が分かり、しょうがないなと思いました。お母さんとは毎日会えないけど、運動会、授業参観、入学式、卒業式など、行事ごとには会いに来てくれて、すごく嬉しい気持ちでいっぱいでした。
私は小学1年生の時からパティシェという将来の夢があり、高校は製菓コースのある学校に行き、専門教科、実習などありました。実習では、洋菓子、和菓子、パンを作りました。実習で作ったものは家に持って帰り、施設の子どもや、里親さんなどに食べてもらい、いつもおいしいと言ってくれて嬉しかったです。また妹の誕生日にはケーキを作ったりして美味しそうに食べる妹を見て、また作ってあげたいと思いました。高校は担任も、クラス替えもなく充実した学校生活を送ることが出来ました。担任の先生はすごく厳しくて嫌になることがあったけど、私たちのために言ってくれたと思うとありがたいなと思いました。そして高校三年間は遅刻、欠席もせず、皆勤を持つことが出来ました。無事卒業することができてよかったです。これからは専門学校に行って技術を身につけていきたいです。里親さん、施設に来て12年になって、最初は言うことをきかなくて大変だったと思うけど、ダメなことはダメって言ってくれたり、何か出来た時はほめてくれたりして嬉しかったです。今までありがとうございました。

《Aさん (父)》
『私の前には道はない、私の後ろに道ができる』
今日は素晴らしい巣立ち式をYさんのために持っていただいて、有難うございました。今の言葉にもありましたように小学校一年生の時から、高校卒業まで私たちと一緒に生活を一緒にしてきました。彼女は3月10日が18歳の誕生日で、素晴らしい記念の巣立ち式になったと思います。3月10日の誕生日の時に家内と二人でささやかなプレゼントを差し上げたのですが、その時に書いた言葉が「私の前には道はない、私の後ろに道ができる」これからは大人に向かっての第一歩が始まるんだ、そういう気持ちで言葉を差し上げたと思いますけれども、本当に巣立ち式の今日から、彼女の新しい一歩が始まると思います。先ほどの会長のご挨拶でも、本当にこころ温まるお言葉をいただきました。そしてライオンズクラブの皆様には、本当に記念になるお祝い金をいただいたと思います。そういう背景を持っている子どもたちは幸せだと思いますので、きっと自分の道を究めて進んでいってくれると思っています。僕の持論ですけれども、「28歳までは結婚するな」と言っています。28歳になってようやく精神的にも一人前になれるという、そういう僕の信念であります。しかし、彼女はどうなるかわかりませんが、僕の期待だけは伝えておこうと思います。今日、来ていただいたライオンズクラブの皆さま、本当に有難うございました。お礼を申し上げたいと思います。

 

(2) I家《里子Kちゃん》
『一緒にご飯食べて会話をした時間は、忘れません』
本当に、3ヶ月という短い間でしたが、ありがとうございます。
自分のペースで自由な生活もでき、本当に、助けてもらっています。外泊もかなりしてましたが、みんなでくらせて、思い出もできたし、楽しかったです。たまに、一緒にご飯食べてきちんとした会話をした時間は、忘れません。家の事とかの話聞いてくれたり、すこしのアドバイスをしてくれて助かりました。話してて、とても話しやすかったです。ファミリーホームに行くのは、初めてだったけど、一緒に居るこどもたちも、優しくてもっとたくさん遊んでみたかったです。みんな優しくかわいかったので、とてもいやされました。
後、残りわずかですがよろしくお願いします。

《Iさん(父)》
『自分の目指す夢に向かって頑張ってください』
Kさん、卒業おめでとう。そして大学入学おめでとうございます。
私たちのところには、3ヶ月という僅かな時間でしたが、3者面談や大学の合格発表など楽しい時間を共有することが出来ました。ありがとう。
これからは、楽しい楽しい大学生活が始まります。しっかりエンジョイしながら自分の目指す夢に向かって頑張ってください。
但し、大学生ライフは楽しいだけでは、ありません。今後は、自己責任という今まで体験したことがない事が全て付いて回りますので、くれぐれも心して日々の生活を楽しんでください。
男親は、かたぐるしい言い方しかできませんが、とにかく、出席日数だけは満たしなさい。これは、大学卒業迄に7年もかけた先輩からの注意事項です。
勉強・アルバイトに大忙しと思いますが、時間を見つけて遊びにいらっしゃい。楽しみにしています。
くれぐれも、体にだけは気をつけて頑張ってください。

 

(3) S家《里子Aちゃん》
『仕事を頑張りたいと思います』
私がファミリーホームひまわりの家に来て9年5ヶ月くらい経ちました。
生まれてから乳児院に居て家族と住んだことがなかったんですけどパパやママにひきとってくれて最初は姉がいないとおもったらママやパパが「いるよ」って言われてとても嬉しかったです。
私を産んでくれたお父さんやお母さんや育ててくれた乳児院の先生や施設の先生やママパパが私を育ててくれたり、児相の先生や学校の先生達に私が色々なことを教えて頂いたり、友達とも話をさせたりしてくれて感謝の言葉を申し上げます。入学式・卒業式の時はパパやママが来てくれて泣いてくれたり、姉妹や兄弟達がお祝いしてくれたり、ママやパパに色々な料理を教えてもらたり一緒にご飯を食べたり、つくしんぼ会のときは子どもたちと遊んだり、先生と話したりしました。後は旅行では山口で海に入ったりしてくらげにさされたこともあったり、後は色々な所に行ったり、でも一番びっくりしたことは大阪に行って首を強くひねって病院に行ったときも自分は覚えてないんですけどママやパパがそばにいてくれて嬉しかったと思ったからです。
私はこの9年間注意を聞かなかったりして本当にごめんなさい。これからは注意されたことを直していきたいと思います。
そして本当に9年間ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。仕事を頑張りたいと思います。

《Sさん(母)》
『Aちゃんが結婚して幸せになるまで長生きしますから』
Aちゃん、私と亡きパパのところへ来てくれて有難う。先日、高校の卒業式の時、急にフラッシュバックしたみたいに、思い出が脳裏に浮かんできました。今振り返ると、Aちゃんを育てるには勇気が要ったし、一言で言うと「大変」の二文字でした。Aちゃんは5人姉妹で、姉4人を引き取り住んでいました。Aちゃんの存在は知っていましたが、当時の私は障がい者であるAちゃんを育てていく自信はありませんでした。でも亡きパパが「姉妹を話してはダメだ。俺がお前を支えるから」と言ってくれたので、Aちゃんを引き取る決心ができました。今では私を支えるように成長してくれました。高校卒業式の時、Aちゃんが「今まで育ててくれて有難うございます。家は私の大切な場所だ。」って言ってくれましたね。私のほうこそ、Aちゃんと知り合ったことで、いろんなことを学ぶことができました。四月から就労先も決まり、次の一歩を歩んでいきます。これから新しい生活とともに、悩みや問題が出てくると思いますが、これからもともに乗り越えて行こう。ゆっくりと成長してゆけばいいんだからね。Aちゃんの明るさと素直さと優しさがあれば、大丈夫です。Aちゃんには頼りないママと、しっかり者のアッキーちゃんと、姉妹がいつもいてくれます。何かあったら、いつも家に帰っておいでね。Aちゃん、私は健常者とAちゃんが結婚して幸せになるまで長生きしますから。最後にご卒業、おめでとうございます。

 

(4) O家《さん(父)》
『言いたいことは言えるそんな家族になっています』
どうも今日は有難うございます。うちのSは高校を卒業しまして、ホテル関係へ進みたいということで、四月から専門学校へ入ることになっています。Sとの出会いのきっかけというのが、うちの嫁さんがたまたま市政だよりを見て、里親制度があるということで応募しまして、その時簡単に「いいよ。」と答えたのが悪いようで、そのころはあまり制度ができていなくて、申請してから忘れるころになって「今から審査がありますので、来てください。」となって、そうこうして乳児院のほうにSに面会に行った時の、三人で緊張していたことを、昨日のことのように覚えています。保育園時代はよく遊んでやりました。その頃は喘息を持っていましたので、朝晩、私が毎日、吸入と言って蒸気を当てていましたが、それがめどが立ちましたころに、今度は未熟児で生まれていたので、弱視が分かりまして、これがまた眼鏡をかけるのが嫌いで、眼鏡をかける、かけないで大喧嘩になりました。それでも保育園時代はよく遊んだんですけれども、小学校はいるとだんだん離れていきまして、だんだん口も聞かなくなりまして、なんかかんかありましたけれども、中学に入りましてちょっと落ちこぼれになり、反抗期の凄まじい時になりまして、なんか本人が、社会全体が嫌になっている感じで、反抗期の絶頂期でもありましたが、高校一年になって段々収まりまして、二年三年になってほぼ、反抗期がやっと終わったごとあります。それと、小学校の時に告知の問題がありまして、告知をしましたけど、それで一番助かりましたのは、つくしんぼ会に入っていましたので、「A家の兄弟とか、B家の兄弟とかみんな一緒だよ」って言ったら、本人も「ふーん」とか言って、それはそれっきりで終わりました。これだけはつくしんぼ会に入っていて、本当に助かりました。育て方が悪かったのか、我儘な子に育ちましたけれども、いいか悪いか自分の感情は全然抑えずに、私にも嫁さんにも、とにかく言いたいことは言えるそんな家族になっています。どうも今日は有難うございました。

「フォスタリングチェンジの勉強を終えて」

                        里親Kさん

我が家には問題行動がある子供たちが沢山います。毎日その問題行動にぶつかるのですが、日々の生活に追われていると、冷静にそれを見つめ子供から出ているサインを読み取るということができずに同じことの繰り返しをしてしまって、無駄な声かけや行動ばかりしてしまいます。そんな我が家にフォスタリングチェンジの風が吹いてきてくれました。今は感謝でいっぱいです。
私は事前の先生との面接で、2歳児の子供と、一番手を焼いていた中2の子供のどちらでいくか悩んでいたのですが、小さい子供の方が良いとの先生の助言もありましたので、2歳児で行くことに。おかげさまで終わってみると、単純でわかりやすい2歳児がスムーズに取り組め、結果もわかりやすくとてもよかったです。
私にとって一番効果的であった子供への向き合い方は、
*褒めるということ、
*問題行動に注目しない、反応もしないということ。
それだけを実行しました。
今回、中2の子供のことについてお話したいと思います。K君は自尊感情がとても低く、自分はだめだ、頭が悪い、顔が醜い、誰からも好かれんなど自分のことを思っている子供でした。また褒められることを極端に嫌がり、褒めることもできません。また気に食わないことがあるとすねて口を聞かなくなり、何日もしゃべりません。私は褒めことができないので、K君がやったことに対し、私がうれしいとか私が助かった~など、直接K君を褒めるのではなく、K君の行動に対して私がどうだったという話をするようにしました。また隣の部屋にいるK君に聞こえるように主人に向かってK君を褒めました。
それから月日は流れK君は褒めることを嫌がらなくなり、反対に褒められる種を沢山私に持って来てくれるようになりました。それからはしめたもの、K君に褒めまくりのシャワーをかけ続けました。
K君は勉強が苦手です。一緒に勉強する中、漢字を覚えることができることがわかり、褒めているうち漢字のテストで80点取れることができるようになりました。覚えることが得意なんだよねと褒めるうち、社会の都道府県のテストで満点に。勉強をやれば自分はできるんだ~と自信につながってきました。2学期の通知表7個も上がったんです。3学期はオール3にすると張り切っています。全くわからず手遊びしていた授業から手を挙げる授業に変わり、質問をし、わかるまで先生や友達に聞くそうです。今期末テストに向けこちらが言わないのに勉強しています。
部活、生活すべてにおいても前向きで感心するばかりです。一所懸命褒めるところを探していた時と違い褒めることが溢れています。すねて話ができなくなっていたところもいつの間にか上手に自分をコントロールできるようになり、一度すねても気持ちを切り替えることができるようになりました。良いところを探し、褒め、問題行動を無視し、注目しないだけで子供は大きく変わります。
こんな素敵なフォスタリングチェンジを学ぶ機会を与えてくださった福岡市の児童相談所の先生方に、また教えてくださった先生方に感謝しております。これからも未来ある子供のために精一杯頑張りたいと思います有難うございました。

「可也山登山してきました」
                         里親Oさん
可也山登山してきました。

先日11月20日に可也山に登山しました。参加者は全部で15名。プラス私なので16名での登山となりました。

お天気は快晴ではないものの、風もなく11月にしては暖かいなかの山行となりました。
集合場所は糸島市役所志摩庁舎。駐車場も広いです。ここに集合して人数確認。
準備体操をして出発です。

可也山の標高は365M。1年365日と同じで覚え易いですね。

駐車場から登山口まで約10分。ワイワイお話しながら進みます。途中でトイレに行きます。山の中に入るとトイレはないのでここでしっかりと済ませておきます。

いよいよ登山口。山道になります。子供たちは体重が軽いので坂道を登るスピードは速い速い。大人ではついていけません。通常、登山口から40分で山頂につきますが今回は人数も多く1時間を超える登山だろうと予測してますので、休憩は2回か3回。20分から30分歩いて休憩。子供たちには後ろを見ながら先に進みすぎないように注意しながらの登山してもらいました。

いよいよ坂が急になり疲れたところで石切り場があり、ここでベンチもあり休憩です。水分補給などしてあと少しです。

休憩後10分ほどで展望台ですが子供たちは元気いっぱいです。
展望台で景色を楽しんで山頂までは坂もゆるくなり無事に全員登頂。記念写真をパチリ。

山頂から海の見える展望台にいきここでお昼ご飯を食べました。
登山開始から予定してた時間より時間がかかって2時間。12時からお昼ご飯となりました。しかし、山頂で食べるご飯のおいしいこと。これだから山登りはやめられませんね。

下山も慎重におりて駐車場に到着は2時となりました。

次は東区の立花山を春にしようと思います。ゆっくり登りますので自信のない方も気軽に参加して下さいね。それでは、またお会いいたしましょう。

『見送り』

                                                                       里親Sさん
下の子Yちゃんは現在小学校四年生、生後七ヶ月で、親子の絆が結ばれました。私と主人が合わせて八ヶ月の間仕事を休み、毎日赤ちゃんに付き合っていました。とうとう赤ちゃんが1歳過ぎたところ、保育園に通い始めました。保育園は主人の通勤道にあり、送り迎えはパパの担当でした。
毎朝私は、なんとも言えない寂しさに覆われていました。とても、保育園に行っちゃう赤ちゃんと離れるのは苦痛だった。自然に自然に、玄関外まで父娘にくっつけようとして、自然に自然に、父娘の姿がマンションの廊下突き当りに消えるまで玄関外で立ち止まっていました。これは、見送り日課の始まりでした。
晴れの日はもちろん、雨の日も、暑い日も、寒い日も・・・
下の子が年少さんのころに、上の子Rちゃんが一年生の身で我が家にやって来ました。私の日課はつい倍になりました。まずはいつもの保育園組の見送りをし、次の見送りは上の子が小学校へ出かける際でした。このパターンは上の子が三年生修了、下の子が保育園卒園まで、三年間も続いていました。
晴れの日はもちろん、雨の日も、暑い日も、寒い日も・・・
とうとう、姉妹とも同じ小学校に通い出し、毎朝一番早く出かけるパパの見送りは、姉妹二人が揃ってするようになりました。次に、姉妹が小学校へ行くとき、私が見送りをしていました。マンション廊下突き当りの曲がり角に自分たちの姿が見えなくなる前に、上の子が振り向いて、手を振ってくれたり、下の子が振り向いて、「ママ大好き」と言ってくれたりするのは、いつも私のその日の一番幸せでした。このパターンは上の子の小学校卒業まで、またも三年間続いていました。晴れの日はもちろん、雨の日も、暑い日も、寒い日も・・・
去年4月、上の子がとうとう中学校に上がりました。陸上部活には早朝の練習があり、今は我が家の中で、お姉ちゃんが一番早く出かけるメンバーとなった。すると、パパはお姉ちゃんの中学校登校見送りをし、妹がパパのお仕事見送りをし、私が妹の小学校登校見送りをする日課に変わってきました。現在に至って我が家のパターンです。
晴れの日はもちろん、雨の日も、暑い日も、寒い日も・・・
毎日、この1分もかからない行動ですが、家族の絆深めに大変役立っています。これからも、どんな見送りのパターンに変わるであろうか、この大いに意義のある家族習慣は、ぜひ続けていきたいと思います。
晴れの日はもちろん、雨の日も、暑い日も、寒い日も♪♪♪

『子どもの力は無限大』
                    里親Iさん
K君は本が大好きで、毎日、何かしらの本を読んでいます。図書館にも行きます。本屋さんで本を見るのも買うのも大好きです。そのお陰か、初めの頃、喋るのが苦手で言葉がうまく出て来なかったのが嘘のように、今では多くの難しい言葉を沢山知っています。苦手だった国語も語彙数が増えると同時に点数が上がってきました。
そんな彼が、ある時、本屋さんで『キッズペディア 世界遺産』の本の売り出しのポスターに目を奪われました。どうしても欲しいというので、早速、予約をして、数ヶ月後の発売日を楽しみに待ちました。発売当日、大喜びの彼は、その日のうちに分厚い本を全部読んでしまい、こう言ったのです。「この本、間違いがあるよ」と。そして、その本の出版社のHPに、メールを書いたのです。よく分からない私は半信半疑で彼の行動を見守っていました。すると、すぐに出版社からお礼のメールが来て、その後、編集長さんからお便りが届きました。私も含め、沢山の大人が気付かない間違いに気づ目…
子どもには、秘めた力が無限にあることを教えられた気がしました。だから子育ては楽しくてやめられない…未来を楽しみに、彼の成長をこれからも、そっと見守っていこうと思っています。

『ふふふ僕達本当の親子みたいやね』
                                                                        里親Mさん
C君と家族になって1年が過ぎ、2度目の夏を迎えました。
この子が2歳の時に、子どもの村のボランティアとして託児に入り、その後、育親さん(子どもの村では里親さんの事を育親さんと呼びます)と親しくお付き合いしてたお陰で、この子の成長を側で見る事が出来ました。
この子にとって、私が2歳の時の自分をしっているという事が、とても嬉しい事だそうです。
C君「やっこちゃん、僕を2歳の時から知っとうと?僕嬉しいなぁ 」(満面の笑み)
それから随分たった数日前の事ですが、突然夜
C「ぼくを産んでくれてありがとう」
(私は、びっくりしながらも)「(私の所に)産まれてきてくれてありがとう」
C「ぼくを産んでくれてありがとう」
私「産まれてきてくれてありがとう」
その会話を繰り返す事数度、また突然C君「ふふふ僕達本当の親子みたいやね。本当の親子になったねぇ」
私「ほんとだねぇーふふふ」と顔をよせあい幸せな一時でした。
C君「僕達バカ親子やねーふふふ」
あんまり私が可愛い可愛いと言うから親バカ➡バカ親子だそうです。
この1年、我が家の生活もC君の生活も激変しました。特にC君は大変だったと思います。一年たって可愛らしいばかりのC君も、今では空手を習いだし、随分たくましくなりました。
この一年の沢山の写真を見ながら、まだまだ中身は赤ちゃんなのに、写真の顔は幼児からお兄ちゃんになって行き、嬉しくもあり、色んな事を乗り越えて、お兄ちゃんになったこの子の心を思うと切なくもなります。
C君「ぼく1年たったけん1歳になったよ」(本当は8歳)
さてC君、 空手を習いたいと本人が決めた時、
C君「今までやっこちゃんに、僕はいつも守ってもらったから、今度は僕がやっこちゃんを守るからね」私達は、中々厳しい親になれませんので、武道で心と身体を鍛えて貰い、我が家では、思いやりや愛を育て、本当の意味での逞しい青年へと育って欲しいと願っています。
C君は大学に行って、警察官になると言っています。
彼の将来の夢を過去に縛られないように、支えて応援をする事が、私の使命だと思います。
今日もリビングから夫とC君の賑やかな笑い声が聞こえます。
心から嬉しそうなC君の声。その声を台所で、聞きながら私は幸せを感じています。家族になって本当によかったと、心からそう思います。C君は我が家の大切な宝物です。

『本島鼓笛隊に参加する』
                                                                       里親Sさん
平成28年8月5日
本島鼓笛隊では毎年春1週間、夏は10日間鼓笛隊の合宿がある。
当方で鼓笛隊に初めて参加したのは平成22年春小学6年生のA子からであった。
1人で他の隊に交じってマイクロで遠く四国本島に行って元気で帰って来た。
A子は「早く女の子が来てほしい」と言い続けてその念願が叶い姉妹が来た。
中学の入学式の後、各部活の先輩達が勧誘で吹奏楽部から誘われ本島の鼓笛隊で体験したこともあってすんなり入部した。翌23年の春の鼓笛隊に姉妹は「A子ちゃんが行くのなら参加する」と言ってたが部活で不参加になり「部活で鼓笛隊に行けなくなったけどどうする?」と聞くと躊躇なく「行くよ」と言ってくれた。子どもながら毅然とした態度に手を合わせる思いだった。
こうして本千嘉分隊が進発することになって今年で13回目を数える。
この「本島鼓笛隊」は昭和40年に始まり音楽を通して青少年の情操教育の一貫として今夏7月26日創立50周年を迎えた。遠くアメリカ、ハワイ、インドネシアなど海外からもOBやその子供と共に帰って盛大に式典が開かれた。
今回は7月25日に最年少で初参加の小学2年生の男子を含め7人の子ども達が参加した。合宿地の本島は海抜21メートルに建立された神殿境内地で瀬戸大橋が一望できる瀬戸内海に浮かぶ小島である。春は未だ寒き海風で煽られ、夏は炎天下で演奏、規律訓練、隊列組んでのパレード練習。その中でも休憩には指導者はただの兄さんお姉さんになって遊び、夏場は海水浴などで楽しんでいる。今回は直接天理詰所だったので「こどもおぢばがえり」のお楽しみ行事にも参加した。私達夫婦が食堂などで声を掛けると二コっとするだけで隊に戻って行く。あとで聞いたら「目を合わしたら気持ちがだらけるけん」とのこと。正に親の知らない統制と調和の世界である。そして「こどもおぢばがえり」のメイン行事「おやさとパレード」では何万人の観衆を集めライトアップされたなかで堂々と行進し毎年金賞か最優秀賞に輝いている。あの凛々しい面立ちは厳しい練習の中で共に汗して頑張りあった仲間意識と達成感から来るのであろうか。
こうして8月4日元気よくすべての日程を終えて又1つ逞しくなって帰って来た。その様子をそれぞれ感想文に書いてもらったので紹介します。

 

{本島鼓笛隊の感想文}

小学2年男子 『パレードみて たのしかった』

 

小学4年男子 『にんじゃ村にいったとき 水てっぽうでにんじゃをうったのがたのしかったし ふくがびしょびしょになったのが きもちがよかったです 天りプールは5~10分くらいしか あそべなかけど たのしかったです 』

 

小学5年男子 『1番最初は、練習がなれなくてきつかったけど 2,3日
毎日練習がなれて さいごの練習では、もっと練習ができるような心が入ってきました。パレードの時は、足なみがそろいとてもかっこよかったです。おやさとパレードは雨でできなくなったけれどまたらいねんにそなえたいと思う。』


小学6年男子 『今年の夏の合宿はこうしんれんしゅうがありました。なにより今年の合宿は天理での合宿で16年ぶりといっていました。パレードではたくさんの人によろこんでもらい 練習のせいかがでてきたと思った』


中学1年女子『今年は天理の合宿だったからいつもとちがってたので楽しかったです。夏はパレードに向けてほぼ練習できつかったけど頑張った分休み時間はとても楽しくすごせました。8月に入ってお楽しみ行事もあってとてもよかったです。ピッ―キーステージ・バラエテー179・忍者村・土持ちひのきしん・天理プール・夜パレ(パレード)見学に行った。夜パレは出れなかったのは残念だったけど、オンパレードで一生けん命がんばれたのでよかったです、来年の鼓笛も早く行きたいです』


中学1年女子『31班で9人だったのでびっくりした。いつもは2班あるのにとてもせまかった。パレードはでれなくてかなしかった。コテキの人数が少なくなってきているので 私がEグルの時は150はこえてほしいです。


中学1年女子『れんしゅうきつかったけど、いいパレードができた。友達とも仲よくできたし。楽しかった。アコーデオンも思った以上にだいじょうぶやった また行きたいと思った。あと おやさとパレードは雨でできなかったけど、こうかいはなかった これからもがんばる』

『名前の由来』
                                                                            里親Iさん
特別養子縁組で親子になった息子の名前は、実母さんが付けたものだ。
所定の手続きを踏めば、改名することも可能らしいが、生後9ヶ月間彼がその名前で呼ばれていた実績を重んじたのと、身ひとつで我が家に来た彼にとって、名前は、実母さんからの貴重なプレゼントのような気がして、改名しないことにした。
自分たちの思いを込めた名前を付けたい気持ちもあったが、何より私たちは、その名前をとても気に入っていたのだ。

ただ、彼に名前の由来を教えてあげられないことが、私の心に引っかかっていた。

子供頃、母は私の名付けの経緯をよく語ってくれた。
「あなたの名前の響きはお父さんが決めたの。お母さんは、別の名前が良かったのよ。漢字はおじいちゃんが提案したけど、その字は画数が悪いから別の字にしたほうがいいって隣の家のおじさんが、今の字を付けてくれたの。それでおばあちゃんもお母さんもその字が気に入って、この名前になったのよ。」
私はこの話を聞くたびに、子供の誕生を喜びながら、隣のおじさんも巻き込んで、家族が侃々諤々話し合っている様子が目に浮かび、なんだか面白く、温かい気持ちになったものだ。

話は変わるが、特別養子縁組の場合、養親が家庭裁判所に申し立てを行い、半年間の試験養育期間を経た後、裁判所の許可があって初めて、法的に親子と認められる。
申し立て後には、家裁の調査官による養親・実親それぞれとの面談、子供の養育状況をみるための家庭訪問等がある。

それは、我が家を調査官が訪問し、私たち夫婦と話しながら、遊んでいる子供を見まもっている時のことだった。
「今後実母さんに会いますが、先方に何か聞いておきたいことはありますか?聞ける範囲のことでしたら、僕が聞いてみます。」
とおっしゃってくれたのだ。私は迷わず名前の由来を聞いてほしいと伝えた。

それから数ヶ月後、裁判所から特別養子縁組を認める審判書が届いた。そして間もなく調査官から電話がかかってきた。
息子の名前は、実母さんが自分の名前の一字を入れて付けたこと、優しく可愛げのある子に育ってほしい、そして優しいお父さんとお母さんに出会ってほしいとの願いを込めて付けたことを話してくれた。
礼を言い、受話器を置いた後、涙があふれた。

それまで、実母さんを含めた家族全員が、子供の誕生を肯定できなかったと聞いていた。多分それは事実だろう。
だが、その状況のなかでも、自分の名前の一文字を入れ、子供の幸せを願って名付けてくれていたことが、本当に嬉しかった。
私たち夫婦にとって、かわいい我が子の誕生が、祝福されるものでなかったことは、たまらなく不憫だ。でも名前の由来を聞けたおかげで、初めてそこに込められた実母さんの愛を感じることができた。

息子はこの春、小学一年生になった。
真実告知もごく自然に進めているので、彼に名前の由来を話す日は、もう間もなくやってくるだろう。その時に、愛ある幸せなエピソードとして語ってあげたい。
そして何より、私たち夫婦が、彼の名前を大好きなことも伝えたいと思う。

「可愛いねえ。」
父に髪を梳かしてもらったお風呂上り。母にお腹をなでられてお昼寝していた午後。小さな頃のこんな風景を思い出す時、必ず両親からのこの言葉がついていた。
年齢を重ねてみて、「可愛いね。」→「私たち親にとっては。」という但し書きがついていたことがわかり、少しがっかりしたこともあったが、「かわいい。かわいい。」と育てられた温かい記憶は、太く張り巡らさせた根っこの一部になって今も私を支えている。
縁あって今、私は小さな娘を育てている。
ある日、お友達とのケンカの果て「不細工!」と言われたんだと、憤慨して学校から帰ってきた彼女。怒りに燃える彼女の話を聞きながら、ふと「それで、貴女は自分を不細工だと思う?」と、尋ねてみた。
「お母さんもお父さんもお姉ちゃんもお母さんのお友達も、み~んな私のこと、かわいいって言うもん。お洋服だって髪型だって、お母さんがいつも可愛くしてくれているもん。毎朝、可愛いってお母さん言うもん。私不細工じゃないもん。・・・・だから大丈夫!」
言いたいだけ言ってしまうと、満足した彼女は大きくうなずいて宿題にとりかかった。
私は彼女の根っこになれるだろうか。

子どもに鍛えられる日々  

                                                                里親Oさん

我が家のH君はいつも元気いっぱいで好奇心も旺盛。だからいつも何か、そう、いわゆる「いらん事」を懲りずにやらかしてくれます。

悪い事や、人に迷惑をかける事をすればもちろん叱りますが、彼なりに理由と目的をもち、ついでに創意工夫までしてくれているので、理解に苦しむと分かっていても、じっくりと彼の話を聞くことを常に心がけてます。いや、正確に言うと、彼に鍛えられたおかげで、私は話をじっくりと聞くことが出来るようになった訳です。

実子がいない私が里親として子どもを迎え入れたのは約8年前。ここまで試行錯誤しながらも何とか子どもとの絆を深めてきましたが、最初は不安だらけでした。

そんな不安いっぱいの、子育て初心者だった頃に聞いて、特に印象に残っている言葉があります。

赤子は肌を離すな。
幼児は手を離すな。
小学生は目を離すな。
中学生は心を離すな。
高校生、あとは自分で何とかするさ。

子育ての教訓の一つとして心に刻んでいる言葉なのですが、逆からみると、自分で何でも考え行動し制御できるようになる為には、それまでの過程がいかに重要かを教えているようにも受け取れます。

もうしばらくは子どもに鍛えられる日々が続くと思いますが、鍛えてもらえる事に感謝の気持ちを抱きながら、成長をそっとサポートしてあげられたらいいなと思います。

『私は私なりの人生を歩んでいきたい』
                                                                    里子Yさん

私が、この3年間、つらかったこと、うれしかったことは、自然教室や修学旅行、受験です。

まず、中学校初めての自然教室でした。私は集団行動が苦手で、友達が少なく、私は周りにたくさんのめいわくをかけてしまいました。
すると、突然友達が「Yなら大丈夫」と言ってくれました。私はその一言ですくわれました。

次に二度目の集団行動、修学旅行がありました。修学旅行は、自然教室とは違って、班別自主研修というのがありました。初めはとても不安でした。班で周るのはとても大変でした。けんかもたくさんしました。ご飯の事でもたくさんもめました。私は、この時、どうしたらいいのか分からずずっと見ているだけでした。本当にあの時、けんかやもめあいをとめることができたのに、私はなぜ止めなかったのかだと心に深く残っています。

最後に受験です。受験は3年間の中で一番大事な試験です。この受験で自分の進路が決まります。でもとてもつらかったです。それに三者面談の時私は、先生にこんなことを言われました。「あなたはここの学校を受けるのはとてもむずかしいよ。」と言われました。その時私は、とてもショックでした。

「自分が行きたい高校になぜ行けないんだろう。」とちょっと思っていました。でも、なぜ私が行きたい高校に行けないのかは自分でも分かっています。それでも、自分が行きたい高校に行くことはできませんでした。でも、私は、その高校をあきらめることができず、お母さんとたくさんもめました。ある時お母さんからこんなことを言われました。「あんたなら絶対行ける。第2希望の高校を受けなさい。」と言われました。私は「いやだ。」と答えてしまい、お母さんをたくさん困らせてしまいました。でも私は、第2希望の高校に受かりました。とてもうれしかったです。

帰ってお母さんに合格のことを話すと「おー。すごいじゃん。本当あんたが受かったのは奇跡なんよ。」と言われた時、私とお母さんで、ハイタッチをしました。

この時私は、「本当に頑張ったかいがあったな」と思いました。そしてお母さん、私が合格した時に一緒に泣いて、ときにはきびしくおこってくれて本当にありがとうございました。そして、たくさんの方々、とくに先生方、本当にありがとうございました。私はこれから家族と離れてしまうけど、私は私なりの人生を歩んでいきたいです。私はこの3年間たくさんの方々に支えられてとても、いい中学校生活を送れたと思うので、次に私がたくさんの方々に恩をかえしたいと思っています。

巣立ち式の里親子交換メッセージ」

1)       里子Kさん

 『恩返しができるような立派な大人になりたい』

1年間という短い期間でしたが、沢山の思い出ができました。

家族揃っての食卓、旅行、お散歩等といった今まであまり経験できなかった事を沢山させてくれました。

ご飯はママさんが毎日栄養を考えて作ってくれました。その中で、鍋物が一番好きでした。今まで全く鍋物を食べた事がなく、実際あまり好きではなかったのですが、この家で食べてみて、とても美味しく食べれました。その理由はもちろん味付けや沢山の具材が一個一個美味しかったです。でも、一番美味しく感じさせたのは、皆そろって食べるので家族という温かさがあってより美味しく感じました。

私がこの家で初めて食べた夕飯はすき焼きでした。とても美味しかったのを覚えています。ママさんは自分で料理はあまり上手じゃないと言ってましたけど、私はママさんは料理上手とずっと思っていました。毎日美味しいご飯を作ってくれてありがとうございました。

旅行は大阪と大分に行きました。どちらも行った事がなく、本当にとても楽しかったです。ママさんに、「Kは自己中心的なとこがある」と言われました。自分でも実際自覚があるので、ママさんから言われた事を忘れずに、これからは常に思いやりを持って、人と接したいと思います。

そして、今までお世話になった人たちに恩返しができるような立派な大人になりたいです。この家で生活ができて本当に良かったなと思っています。今まで本当にありがとうございました。今の自分が居るのは、今まで支えてくれた人たちのおかげです。

 

2)       里子Oさん

 『子どもたちから寂しさを取り除けるような保育士になりたい』

私の将来の夢は保育士になることです。この夢は小学生の頃から変わりません。私には筋ジストロフィーという病気を患った兄と優秀な姉がいます。姉には夢があります。兄のような障がいを持った子どもたちの先生、つまり特別支援学校の教員になることです。私が知っている姉はいつも勉強ばっかりで兄のお世話をする時も手伝ってくれなかったので正直好きではありませんでした。けれど姉は私の知らないところで頑張っていたのです。教員になるために大学へ進学の夢に向かって頑張っていたのです。その大学が福岡教育大学でした。難関であるこの大学に姉は一生懸命勉強して合格しました。好きではなかった姉が私の尊敬する人、憧れの人になりました。そして、私も姉のように大学へ進学し、保育士の資格を取りたいという夢を抱くようになりました。そのためにはまず大学へ進学することが第一です。私は香蘭へ進学し、一生懸命頑張って資格を取り、多くの子どもたちに夢と希望を持たせられる保育士を目指そうと考えています。なぜ私が保育士を選んだのかといいますと、私の出身園が保育園で幼稚園の事を知らなかったのです。けれど成長していくにつれて幼稚園の存在を知り、違いを調べました。それでも私の夢は変わらず保育士でした。幼稚園教諭はだいたい朝の七時から夕方の三時くらいまでで延長保育五時までです。保育士は朝七時から深夜まで子どもをお預かりしています。私も幼い頃は夜遅くまで親の帰りを待っていました。待つことはとても不安になります。きっと子どもたちも寂しくて仕方がないと思います。私がそうだったように。私が保育士を選んだ理由は、延長保育で不安になってしまう子どもたちを安心させたいという思いとそういった子どもたちの寂しいという思いを少しでも和らげたいと思ったからです。そのために大学へ進学し、専門知識を学び、一人でも多くの子どもたちから寂しさを取り除けるような保育士になりたいと思います。こんな私に子どもたちを守れるのが子どもたちの助けになれるのかと悩んで、夢をあきらめようとした事もあります。けれど弱気な人を子どもたちが頼りにしてくれるはずがありません。弱気にならずに自分に自信を持って子どもたちに接していきたいと思います。私が保育園児の時に憧れた先生のように私も園児たちの憧れの先生になれるように努力を怠らず何事にも全力で取り組んでいこうと思います。私が保育園児の時、私は耳の中を切り出血をして怖くて泣いていました。そんな私をある先生が優しくなだめてくれました。その先生はよく笑い、悪い事は悪いと怒ってくれたり、良い事は良い事と褒めてくれる先生でした。そんな先生に私は憧れました。これも私が保育士になりたいと思った出来ことの一つです。

 

3)       KさんとOさんの里母Sさん

 『なにかあったときはいつでも家に帰ってきてください』

二人とも良い娘です。子どもたちが私を支えてくれたおかげで今の私がいるとおもっていいます。逆に私が感謝しています。「本当にありがとうございました」。これから巣立っていく訳ですが、なにかあったときはいつでも家に帰ってきてください。待ってます。

 

4)       里子Cさん

 『理想の看護士像を目指して』

二年半ほどの短い時間でしたが、本当にお世話になりました。アルバイトなどで家を空ける事が多く、あまり会話する事はできませんでしたが、本当に暖かい家でとても楽しかったです。先生の暖かいご指導のおかげで無事に高校生活を終え、また第一志望の看護専門学校に合格することができました。二年半の間でもたくさんのご心配とご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。でも私はこの二年半で得たことを心に刻んで、私がずっとなりたいと思っていた理想の看護士像を目指してこれからも精いっぱいの努力と勉強に励んでいきたいと思います。本当にありがとうございました。

 

5)       Cさんの里母Iさん

『みんなのお手本になってね』

高等学校卒業、そして看護学校の入学おめでとうございます。あなたが我が家に来たのが高校に入学したての5月でしたから、早いもので三年弱になります。口やかましい私の元でよく頑張りました。雨、雪の日もチャリ通学での三年は立派でした。聡明なあなただから必ずや理解してくれると信じてのメッセージです。頭の中に入れておいてください。それは簡単なようですが難しい「みんなのお手本になってね」と言う事です。自分だけ良ければいいのではなく。社会的養護を必要とする、後に続くこども達の良い道しるべにになること。それは「専門学校の卒業と看護師としての充実した社会人生活」のために、もう一頑張りして欲しいということです。それには高校時代以上に専門的な勉強や、実習をしなければなりませんので大変だろうと思いますが、頑張ってください。看護師という社会的に立派な職業を目指し、かつ単位の取得ができなければ、即退学の厳しい状況に置かれるのですから、蜜のような甘い励ましは言いません。あえて激励の意味をこめて辛口な言葉を送ります。心して勉学にいそしんでください。あなたならできる。頑張れ

「未来がよくあるため」

                                                                 里子K君
ぼくは、未来がよりよいとは、幸せである、ということだと思います。

ぼくが考える幸せとは、おふろに入られるということ、ご飯が食べられるということ、勉強ができるということ、あたたかい布団で、ねられるということ、楽しいことができるということです。

でも、ぼくは、修学旅行で、長さきに行って、考えました。原ばく資料館で、一発の原ばくで、町が焼けたことが、たくさんの人がはいになったり苦しんだりしたことをあらためて気づきました。この一発の原ばくで、ぼくの考える幸せは、なくなって、しまいます。

今、世界では、国の中の争いや国と国の争いがおこっているところがあります。この日本でもこのような争いが絶対にないとはいえません。

ぼくは、日本の未来がよりよくあるために、自分ができることを考えました。

それは、みんなと、仲良く協力すること、こまっている人に親切にすること、ケンカをしないで、話し合って自分の気持ちを伝え合うことが大切だと思います。

そして、自分が悪かったと気付いたら、あやまる気持ちも大切です。

相手の気持ちを思いやることが一番大切なことだと思います。

 

どもの自立と家族支援の必要性―社会的養護の立場から」

                          里親Aさん

今、私の家には、6人の子どもたちがいて、ファミリーホームをしています。中3、中2、中1、小5、小4、小26人でこの子たちは、もう3年近く同じメンバーで過ごしていますし、あと3年はこのままの可能性が高いのでかなり家族的な関係になるだろうと思います。  

現在、福岡市での里親家庭にいる発達障害や虐待を受けた子どもの割合は約60%、ファミリーホームでは80%と言われていますが、我が家でも、ADHDと虐待経験を併せ持っている子が2人、それに学習障害も重なっている子が1人、激しい虐待を受け、ADHDAD的な行動をする子が2人、超未熟児だったことで学習面、運動面にかなりの遅れがある子が1人で、6人全員が何らかのハンデーを持っています。ですからその分、環境から来る影響を受けやすく、一人がハイテンションになると伝染してみんながハイテンションになり、なかなか元の落ち着いた雰囲気に戻りにくかったり、集中力が長続きしにくいなどの傾向があります。

そんな子供たちですが、小学生の時は公文のドリルや宿題のドリルを多めにすること、担任の先生との情報の共有や連携で学習面や学校生活をサポートしてきました。小学校では、どの学年でも、音読、漢字ドリル、計算ドリルが宿題の定番になっているので家庭学習も進めやすく何か分からないことがあったり、問題が生じたら担任の先生に相談することでほとんど解決できました。しかし、中学校はそう簡単ではありませんでした。小学校と中学校では、子どものおかれた環境が相当違うということを後で気がつきました。例えば、小学校は、1学年100人程度で3クラス。毎年、クラス替えをするので自然に学年みんな顔見知りになります。卒業の年は、自分たちが最上級生で後は自分たちより年下ばかり。それが中学校になると、まず二つの小学校が一つの中学校に行くのでいきなり大人数で半分以上知らない人。周りは、自分たちより大きい人ばかり。雰囲気も、明るい楽しい雰囲気から少し重苦しい大人の雰囲気に。そして先生も、全ての教科を担任が一人で受け持つ小学校に比べ、中学校は科目ごとに先生が変わるので担任はいていないようなもの。特にADHDの傾向がある子は、この変化になじみにくく大変らしいとある小児科の先生が言っていました。

我が家でも、今、中3の子がそうでした。入学してから1年半、落ち着かない日々を過ごしました。気分がいつもふわふわしていて勉強にも集中しません。最初は、慣れていないからかなと思い見守っていましたがいつまでたっても変わりません。担任の先生に尋ねてもはっきりしない。勉強はしないから成績は下がってくる。塾に通い始めましたが、成績は下がる一方。そのうちだんだん素行も悪くなって、うそはつく、学校はさぼる。提出物は出さない。私の財布からお金を抜き取る。私には、この子どもの変わり様が理解できませんでした。小学校の時は成績も真ん中より上だったし、生活も落ち着いていました。ADHDはあったものの、あまり気になるようなことはなかったのです。1年がたち、2年生になってからも相変わらずでした。昨年のことですが、私はその時期、病気治療中で寝ていることも多かったので私だけでは限界を感じ、夫や児童相談所に相談しました。一時保護も検討されました。夏休みの中ほどのことです。里父である夫が中学校とそれまで通っていた塾に出かけ、先生たちからの正確な情報をもらいました。中学校では、夏休みの宿題の量が子どもの言っていた分の4倍近くあったこと。2学期の初めには、その宿題の中からテストがあること。塾では、さぼりがちで宿題もしてこないので困った存在であること、別の塾を捜すとしたら個人がされていて先生の移動がない小さな塾の方が望ましいのではないか、など。それから2週間。夫はこの子を職場に連れて行き、そこで宿題と勉強を見ました。毎日、4~5時間。問題を解いている横で仕事をし、会議などで横に居れない時はそこにいる事務員や事務室に出入りする人たちに協力をお願いして声かけをしてもらったそうです。最初は渋っていた子どもも、だんだん慣れて平気になり、3時頃勉強が終わった後、図書館やバス停に送ってもらったことを嬉しそうに話してくれたり、夏休みの終わり頃には、「僕、おとなになったら、ここに就職しようかな。」とか言うようになりました。その頃でしょうか、子どもの顔つきや会話が前のように人懐っこくかわいらしく感じられるようになったのは。何とか、夏休みの宿題が終わり、新しい塾も決まって、2学期が始まりました。新しい塾は家から自転車で10分の所で、これまでのことを全部話し、何でも伝えていただくようにお願いしました。それから、1か月たったある日、その子が興奮して学校から帰ってきました。手に1枚の用紙を持っています。「見て!」数学の答案用紙です。「79点。すごかろう!」ついこの間まで19点しか取れなかった苦手な科目でした。「すごいやん!」「うん、すぐにファックスせな!」そう言って、子どもは夫の職場にその用紙をファックスしていました。それから、1年、この間のテストでは「91点」。また、ファックスを送っていました。点の取り方や勉強の仕方がわかったそうです。今は、何とか高校にも行けそうだし、うそやさぼりもなくなって将来の話なんかもするようになってきたのでほっとしていますが、あの時は何故あんなになったのか今でもキツネにつままれたような気分です。我が家は3人続けて一つ違いなので、今では中学生が3人になり、夕食時にはその3人で共通の話題である中学校の先生、友達、行事の話やすきなテレビの話などを楽しそうにしています。その光景を見ていると、一人だけ先に中学生になり、共通の話題もなく島流しにあったような気分だったのかなとも推測したりします。最近、実の弟が勉強を渋っていると、横から「勉強はしとった方がいいぞ。おれも中1の時、もう少ししとったらよかったって、今、後悔しとうもん。」とつぶやいていました。「大丈夫!遅くはないって。今からでも頑張れば十分間に合うよ。」と横から口をはさみながら、彼がこんな発言をするようになったことを幸せに感じている今日この頃です。

ところで、自立と言うと経済力、経済力というと就職が頭に浮かびます。これまでの里子の中に、高3の5月の末に措置され、奨学金を受けて大学進学を果たし、今現在、乳児院に勤めている子がいますが、この子の場合、まず学習面は優秀でしたし社会性も問題ありませんでした。措置された当初は疲れ果てていたのでしょう。里親側からみると頼りなく「大丈夫?」と思うことも多々ありましたが、ハンデーはないし、授業や卒論、就職に対しても、とても真しだったので自立に関しては全く心配しませんでした。

でも、今いる6人の中には心配な子もいます。こだわりが強く、興味のあることしかしようとしない子。すぐ切れ、暴力的になる子。学習障害があり、勉強したことが記憶に残りにくい子など。こんな子たちには、例え希望した所へ就職できたとしてもそこでの人間関係をうまくやっていけるか、与えられた仕事を根気よく続けられるか、何かのきっかけで投げ出してしまわないか、心配が頭をよぎります。どんなふうに関わったら自立につながるのか・・・。今の私には、これと言った明解答はありません。ただ、いつもそばにいて、「大丈夫」と励まして、困ったことが起きた時には一緒にもがいて、今やった方がいいことをコツコツとやる。この毎日の生活の向こう側に何か自立につながるものがあると信じたいと思っています。我が家では、小学生は14畳の部屋にベッドを3台並べて私も一緒に寝ているのですが、中学生も夜遅く塾から帰ってきたら、お忍びでベッドにもぐりこんできて「ハグして。」とか、一しきりおしゃべりをしてから自分の部屋に戻っていきます。いつまで続くかわからないけどこんな時間が大切なのかなと思いつつつき合っているところです。 

子どもたちは、あっという間に育ちます。自立したらこんな日を懐かしむようにもなるでしょう。誰かが言っていました。子育ては、編み物と一緒。一針一針心をこめて丁寧に、編みこぼしがないように。これからも1日1日を大切に、楽しみながら子どもたちとの生活を過ごしたいと思います。 

さて、実親の話をします。今いる六人の子どもたちの中で実親との交流があったのは、一組だけです。そちらはもともと1~2年で引き取ると聞いていました。それが今に至っているのは、子どもの方が躊躇したからです。どの実親さんもそうでしょうが、それぞれ色々な事情があり、居場所や家族構成も変わっていたりしてそこも含めて子どもは、どこに自分の居場所を決めた方がいいか安心安定があるのかを考えます。また、里親家庭でこれまでつきあってきた友達や親しい大人とのつながりも考えるでしょう。入学などの節目の時期に、全てを考慮して子どもは居場所を決めてきました。それが大事だと思います。里親家庭に来るまでに子どもたちは、散々大人に振り回され、もっとも大切な時期に、最も幸せであるはずの時期に大変な重荷を背負わされています。幼児には難しいかもしれませんが、小学生以上であれば自分で将来を選ぶ力を子どもたちはつけるべきで、おとなはもっとそれを尊重してしっかり考えさせ選ばせるべきだと思います。振り回されるのではなく、先を見通して、今、何を選んだほうがいいのかどうしたいのか判断する力を育てることが大事です。

「実親との再統合」は理想であり、掲げるべき目標かもしれません。でも、一方でおとなは、なかなか変わりにくいものです。

親しい里親さんの所の再統合の話をします。その子は2歳半で里親家庭に預けられ、4年半そこで育ち、小学二年生になる四月に母親の希望で再統合になりました。準備期間は、3~4か月でその内容は、週末に一日、実親家庭で過ごすこと。その日は、毎回、外食だったりお出かけだったり、パーティーのような日々だったそうです。子どもはそんな待遇や母親に大満足。ずっとそんな日が続くと思っていたのでしょう。しかし、当然ですが、実際一緒に生活し始めると毎日パーティーというわけにはいきません。再統合されて何ヶ月かが経った後、「やっぱり里親さんの所のほうがよかった。里親さんの所に戻りたい。」と言い出しても時遅し。この子の場合は引っ越しで音信不通になり、二年たった今年の夏休み。急に親子が現れたかと思ったら育てられないので預かってほしいと言って置いていかれたそうです。二年の間に両親は離婚し、下の妹は父親に引き取られていました。母親は、夜、仕事をするようになり、それが面白くなって子どもは放ったらかし。さしあたって夏休みの間ということで預かることにしたものの八月の終わりになっても何の連絡も来ない。子どもに案内してもらって家に行ってみると母親は寝ていて子どもへの心配も関心も全くなし。その上、おばさんの家族が引っ越してきていて従兄弟たちから「何で帰ってきたと。」と言われる有り様。せめてそれなら学校の転校手続きでもしてくれれば里親さんが預かってもいいと言っているのにそれはしない。実親さんの家から里親さんの家までラッシュの時間には片道1時間弱かかり毎日送っていくわけにもいかないのでとりあえず、月曜日から金曜日は実親家庭から学校に行き、金曜日の夕方から日曜日の夜まで里親家庭で過ごしていました。その間も実親家庭では料金を払ってないので水は止まる、ガスは止まる、でお風呂にも入れず、トイレはコンビニ、食事はある時ある物を食べるだけだったそうです。そして、2週間前、夜中の12時、従兄弟から金属バットで殴られそうになって里親さん宅にタクシーで逃げ込み、今現在は児童相談所に一時保護されています。これが現実の「再統合」の一例です。「再統合」に向かうに当たっての準備の進め方もアフターケアも雑で実にお粗末です。「再統合」という高い理想に向かうのなら、それに見合った内容のあるプログラムを進めていただきたい。そうでないと、里親は「再統合」を快く受け入れ、子どもとともに喜ぶことはできません。内容のあるプログラム。それは実親家庭にもどった後も、里親家庭にいた時と同じかそれ以上に子ども自身が自分の将来に向かって可能な夢と希望を持てる充実した生活の保障であり、それこそが子どもの最善の利益なのではないでしょうか。そして、それがきちんとなされているのかの確認を、進めてきた行政はせめて、年に1~2回、十八歳まで行なって、それに必要な支援をしていくことこそ「実親支援」であり、本来の「再統合」ではないかと思うのですが・・・。「連鎖」という言葉があります。悪い連鎖は断ち切らなければなりません。「再統合」は、実親の希望でただ元のさやに戻すというのではなく、悪い連鎖に決してならない「希望ある家族の姿」が、支援に寄ってはっきりと見えてきたときにこそ行われるべきものだと思います。子どもの未来がかかっているのですから。

お盆里親手記第二話「おばちゃんはトトロ?」

                      里親Sさん

H君(3)とN君(2)は兄弟、

私の9年ぶりのお盆里子でもありました。

とても、人こい子で、笑顔がすごく素敵。

二人が同時に笑っているときに、

誰でも一目で「兄弟や!」と叫ぶくらい顔がそっくり♪

さっそく、"本番"のお盆前でも、外出交流をってみました。

その日、旦那が仕事で、うちの二姉妹は奈良県合宿に行ったため、

私が一人でした。兄弟を海の中道公園に連れて行ってみた。

二人を一台の公園で借りたベせて、

観覧車、ちび子場、ちび子プル、食事をしんでいた。

最後に、私たち3人が室であるちび子場で、

ちょっとした昼寝をし、施設にりました。

炎天下の中、2人で一台のベ。本に申しないくらい

ちび兄弟は窮屈だろうと思っていたが、ちび兄弟は意外にお利口でした。

ずっと、私と話をはずみながら、体のきつさを忘れていたようです。

りの車で、弟の「N先生」からまた感動のお言葉をいただきました。

私が運しながら、助手席に座っている弟、

後部席に座っているお兄ちゃんと何なく話をしているときに、

弟のN君は急に話題をえようとしました。

「おばちゃんは、トトロ?トトロ?」

あかちゃん語がさっぱり分からないので、

「そうよ、トトロだよ。デブちゃんやけ・・・」と私が

適度に話に付き合ってみました。

だが、納得できないでしょうか、N君はずっと同じ質問を繰り返していた。

 「トトロ?トトロ・・・あぁ~!サトオヤ?って聞きたいわね。

そうよ、おばちゃんは里親だよ。」と、やっと私が答えきった。

どこから、「里親」ってえてもらったでしょうか?

お盆里親との違いがわかるやろうか・・・

いろいろ、私が考えんでいる間、わずか2のN君、質問はさらに詳しくなって行った:

「Nの里親?おばちゃんはNの里親?」「そうよ、N君の里親だよ。」と、

何サイクルかこの話を繰り返した後、N君は急にんだ。

わくわくドライブ中のN君にしては、珍しい風景です。

カンでしょうか、私は

「そうよ、N君の里親だよ。N君のこと、大好きだから。」と言うと、

N君は「開け」て、「あ、トラック!タクシ~、バス♪」といつもの話でみ始めました。

 小さな体、小さな魂、中身は大人以上あるかも・・・

 「三つ子の魂百まで」、っして人間の性格は、三のときは決め手です。

と2のちび兄弟は今、その性格形成のっ最中です。

我が家の存在は、ちび兄弟のこれからのなが~~い人生と比べて、

一瞬の存在にすぎませんが、とにかく、とにかく、

しい思い出、愛される思い出をいっぱい積んであげて、

 きっといつか、思い出が彼らの心を動かし、

 彼らが幸せを探しける「原動力」になると信じながら、

 少しではありますが、私は頑張ってみたいと思います。

お盆里親手記第一話:『ちびいちびい?』

                                            里親Sさん

H君(3歳)とN君(2歳)は実の兄弟、 

私の9年ぶりのお盆里子でもありす。 

とても、人懐こい子で、2人とも笑顔がすごく素敵です。

さっそく、お盆の前に週末の外泊を図りました。

土曜日は、小3の娘が卒業した保育園の夕涼み会に行き

夕涼み会の後は、隣にある自分たちの所属カトリック教会で、

一家がミサの予定にしていました。

ですが、すごく不安でした。

ミサ中、幼いH君たちがお御堂で走り回ったらどうしよう~~

気軽に喋ったらどうしよう~~ 

でも我が家はミサに行かないといけないなぁ・・・などなどと考えて、

私は夕涼み会を楽しめなかった。

でも不思議不思議、1時間のミサ、2人が小さい体を寄せながら、

一緒にじっとできました!!

私は日曜教会学校の幼稚園生クラス担当です。

今まで、ミサ中、幼児たちのあらゆる「反乱」を見てきた私に取って、

3歳と2歳にして、ありえない穏やかさでした。

ミサ中に限らず、私のうちで何もやることがないとき、

車に乗っているとき、とにかくあばれたら困る場所では、

2人はいつも小さい体を寄せあいながら、じっとしてくれています。

遊んでいいときは、思い切って遊びます。

なんという世話しやすい幼児たちでしょう。                                                

あと一つはもっと不思議。

土曜日、教会から帰宅のとき、旦那の運転がちょっと荒く 

私がたまたま車の内で、首を打ってしまい、

「首が痛い!優しく運転せんね!」と叫んだのです。

翌日日曜日朝、ちび兄弟を連れて車で空港見学に行く途中、

私の隣に座っていた弟のN君が

ずっと「ちびいちびい?ちびいちびい?」と、私に質問してくるのです

あかちゃん語が分からない私は、

何回か適当に解釈して、答えてみましたが、

N君の質問は止まらなかった。

多分、「くびがいたい?と聞きたかったのね。

N君、ありがとう、おばちゃん、もう痛くないよ。」と

やっと私が気づいて答えてあげたら、N君が初めて別の話題に変えた。

前の日、私の首が痛かったことを覚えてくれたのはもちろん不思議ですし、

2歳にして、逆に大人を心配してくれるこの優しさに、

私はとても心を打たれました。たったの2日間ですが、

ちび兄弟より、おそらく私の方がぬくもりをいただきました。

小さな体、小さな魂、中身は大人以上かも・・・

その後、毎回交流するたびに、なんらかの形でちび先生たちに

「学問」を教えて頂いています。

第二話の『おばちゃんはトトロ?』をぜひお楽しみに。

 

「我が家のTくん。(その2勉強編)」

                           里親Tさん

T君は、4月に小学校に入学したピカピカの1年生。

保育園のころは、宿題というものがなく快適な毎日を送っていました。1年生になり5月の連休明けより、宿題が始まりました。

共働きの私たちは、残業せずに帰ってきても午後530過ぎです。留守家庭子供会のルームからT君が帰ってくるのが 5 : 30~6 : 00初めのころは、寄り道ばかりで600頃帰り、宿題する時間もどんどん遅くなっていましたが、今は、約束を守って5 : 45くらいまでには帰って来てくれます。

プリントや漢字練習は、ルームで自主的に行うことができますがやっていないときは、家でしないといけないのでもう大変です。音読と計算カードは、家で保護者が確認し、サインをしないといけません。勉強が苦手なT君は、計算カードを片手にいろいろとお話ばかりして一向に始めようとしません。やり始めると「わからん」と言って泣き出します。そんなわけで夏休みに入ると計算カードは、時間を計るようになりました。初めは6分くらいかかっていた足し算、引き算が夏休みの終わりには、足し算が1分半、引き算が2分半までタイムが伸びて本人もとても喜んでいました。

クラスだよりの夏休みの思い出は、「計算カードが、早くできるようになったこと」でした。他の子は、旅行、外食、お出かけしたことなどがほとんどでした。T君もお出かけはしたのですが、よほど計算カード印象深かったのでしょう。クラスで3名だけ計算カードについて書いてありました。なんとその一人は、「計算カードが45秒になりうれしかった。でもお母さんは、38秒でした。」と書いてあり、びっくりしました。その後Tタイムが伸びないと泣くこともありましたが、念願の1分を切り、45秒くらいでできるようになりました2学期は、計算カード(2)→10以上の数になり、振出しに戻ったような感じです。トホホ・・・・しかし、私も少し成長しました。タイムキーパーをしながら、目標の5分を過ぎる前にタイマーをストップさせています。なぜかというと「ピピピピピ」時間を知らせるベルが鳴るとT君は、号泣し取り返しのつかない状態になるからです。

他に音読も苦手な分野です。字を読まずに暗記しては、適当に読んでいるため、毎日「字を読みなさい」と言っています。 

計算は、夏休みの努力で克服できましたが、音読と数字や文字の乱れについては、これからの課題です。里親がこんなに大変だとは、思ってもいませんでした。衣・食・住を普通にこなしていけばよいのかと思っていましたが、お勉強という大きな壁をいかに楽しく乗り越えていくかが、今後の課題です。

平日は毎日が宿題、時間割、持っていくものの準備、食事、風呂。21 : 00就寝。こんな毎日です。

走ることが好き、遊ぶことが好き、虫が好き、動物が好きな元気な男の子の話でした

 

「我が家のT君(その1趣味編)」  

                            里親Tさん

T 君が我が家に同居するようになって、1年が過ぎました。

1年しか経っていないと思えないほど、とても懐いて周りのことに気を配って

 動いてくれます。

今年、小学1年生になり、自由人だったT 君も徐々に社会性を身につけ、

しっかりしてきました。

T 君の趣味は、虫取りです。

昨年夏、近くの公園でセミを一杯取りました。

今年も土曜と日曜は、近くの公園でセミをとっています。

網で次々と採って、あっというま に3~4匹、

それを虫かごに入れるのが、私の役割です。

なんとT 君は、セミが触れないのです。

1年生になってやっと小さなバッタとモンシロチョウ、

糸トンボがさわれるようになりました。

ちなみにミミズ、カエル、それに死んでいる虫は触れます。

私も虫が苦手なので、ドキドキしながら、

虫かごの上に蝉の入った網をかぶせて

1匹ずつかごに入れています。

昨年の夏は、ジージーゼミの茶色の羽が、まるで蛾のよう

に見え、気分が悪くなり、

「お願いだからジージーゼミはやめて、あぶらぜみにして」とお願いしました。

今年は、比較的アブラゼミが多いので助かっています。

そんなこんなで、いままで土曜、日曜はゆっくり過ごして

いた私の生活が一変して公園で過ごす時間が増えました。

 

「家族にとって大切なのは」

                   里親Yさん

20年前、私は女の子を出産し、母親になりました。初めて抱っこした赤
ちゃんは、とても小さくて、壊れそうで、大切に育てなきゃと思いました
が、自分の子どもなんだ~という実感は、あまりわきませんでした。
おっぱいをあげ、おむつを替え、抱っこして語りかけ、そういう毎日を
過ごしていくうちに、だんだん、だんだん赤ちゃんが愛しくなっていきま
した。
その時、私は思いました。親子にとって、血のつながりは関係ないな~
と。親子にとって大切なのは、一緒に過ごす時間なんだということを!

昨年の夏、4 才の男の子、S 君に出会いました。我が家の4 人
目の子どもとなったS君は、時折はげしい部分もあるのですが、家族みん
なに可愛がられ成長しています。S 君との毎日は、笑いの絶えないとても
かけがえのない日々です。
20年前、赤ちゃんだった娘は、S君のおかげで、「子どもって可愛いね。
自分も結婚して、子どもが欲しくなった」というようになってくれました。
そして、今、私はまた、同じことを強く感じています。家族にとって大
切なのは、血のつながりではない。一緒に過ごす、だということを。

S君は今、私たちにとってとても大切な家族です

『親子で成長!?』  

                       里親Tさん   

ようやく3学期がスタートして、

下の子は幼稚園、上の子は小学校1年生といつもの我が家。
家族それぞれが上の子の小学校入学と共に力を付けた様に感じたこの冬です。
12月に入る前に、自家製の干し柿を上のお兄ちゃんと作った。皮をむき、少しゆでた渋柿を1つずつ、ヒモで結んでいく。ヒモで結ぶという作業には集中力がいる。なかなか上手に出来ず、何度も何度もやってみる「出来な~い」と根をあげそうになるものの、最後まであきらめず6個の渋柿を40分程かかって仕上げた。
少し前までなら簡単にあきらめていた上の子、いつの間にそんな力がついたのだろう・・・おどろきとその頼もしさにうれしく思いました。

我が家では、食事(外食も)のリクエストをあまり子どもに聞きません。だから、いつも子ども達から不満ばっかり言われます。その日も夕食は外食となり、いつもの様にうどん屋さんに行きました。うどん屋に行くとわかった途端上の子の「何で~」「いやだ~」「いらん」の言葉の連呼でした。頭を悩ます我が家のいつものひとコマです。私は「また始まった」「毎日毎日何でそうなるん」と頭にきそうになりましたが、そこをぐっと、こらえて、上の子の言葉を淡々と聞き流していました。すると「お母さんごめんなさい」と私の耳元に小さな声で謝って来たのです。「何で~」「いやだ~」「いらん」の子どもの言葉に動じる事のない私でいれました。私にもいつの間に、こんな力がついたんだろうと、びっくりしました。この子たちと出会ってあっという間の7年、私達夫婦を親になろうと元気にしてくれる大切な存在。私達夫婦を「親でいてくれて良かった」と思ってもらえるよう、これからも子ども達と過ごせる日常を楽しみながら精進して生きたいです。

『幼児自転車があります』

                   里親Sさん
と2月バザーコーナー掲示板に書いたら、
すぐにKさんから「ほしい」と、声をかけられました。
翌3月自転車をKさんに渡しました。
補助輪は外され既に1年ほど乗ってない放置状態の自転車は、
本当に役立つのだろうかと、ちょっと心配していました。
でも、日曜日の夜、Kさんからのメールを読んで、ほっとしました。


『土曜日に持ち帰って、すぐに、凸凹道で練習していました。』
なかなかうまくいきません。
何度転んでも、繰り返し、繰り返し乗っていました。
どうも、それが良かったようです。
補助輪なしで、凸凹道で、という厳しい条件が・・・
翌、日曜日、今度は舗装された幅5メートル、長さ150メートルほどの
直線コース(車が通らない農道)に連れて行って、乗せました。
な、な、なんとしょっぱなから20メートル、50メートルと
倒れないで乗れたのです。本人の喜びようと言ったらありません。
その勢いで今度は、公園の広場に連れて行きました。
狭い広場なので曲線コースになりますが、難なく1周100メートルを
倒れないで回れたのです。
こどもってほんとにすごいですね。
補助輪なしの自転車を譲っていただいたおかげで
彼(R君 6歳)は、一気に乗れるようになったのです。
自転車と共に、彼は大きな自信と達成感ももらいました。
こんなすごい話ってそんなにあるものじゃないと思います。』

R君、多分私もまだ遊んだことのない子ですね。
あえて補助輪なしの自転車を譲ったことがよかったとは
夢にも思いませんでした。
子どもに秘められている力とその無限性に、感動しました。
一週間後、一通のハガキが届きました。 
自転車の絵が一面に描かれていて
すぐにR君からのものだと分かり、とても嬉しかったです。
R君は、綺麗な魂を持っている心のやさしい子ですね。そのハガキから、
感謝の気持ちが伝わってきます。
まだ幼い未就学児、知らないおばちゃんに精一杯絵を描いて、字を書いて・・・
R君の投函を手伝ってくれたKさんにも感謝しました。
一か月後、能古島レクレーションの日の朝、集合場所で、
R君に初めて会うことができました。
「R君、すごいですね。自転車も乗れて、立派な絵も描けて…
ハガキ描いてくれてありがとう・・・」と、
私がほめると
わくわくしたR君は思わず両手をあげて、絵を描くポーズをし始めました。
私は一瞬、自分の目を疑いました。
R君の両手の指に障害があるではないですか!
この手で、自転車のハンドルを握ってバランスを取るとき、
ペンを握って絵や字を書くとき、その頑張りを想像できます。
R君は、見事ないのちの無限性を見せてくれました。
「幼児自転車があります」との一言から始まったR君との出会い、とても嬉しく思います。
子どもの尊さを勉強できた貴重な体験となりました

日記「字が読めるようになった頃のあなたへ」
                      里親Sさん
○○年4月25日(金)晴れ
Yちゃん、Yたん、Yたんたん、そしてとうとう「タンタン」と呼ばれてしまった我が子よ、二歳のお誕生日、おめでとうございます。
タンタン、知ってますか?ママは普段は日記を書くのに中国語を使っています。でも、このめでたい日をきっかけに、ママはあなたのライフストーリーの作成を決心したの。この日記を序言として付けときたいため、ママは初めて日本語で日記を書いてみました。
あなたが、この文章を読めるのはあと何年先でしょうか。その時、あなたは「里子」という身分で、どのくらい普通家庭の子とは違う道を歩み、心の奥にどのくらい特別な思いを積もっているでしょうか。それぞの体験は、あなたの人生をある程度苦しめたのか、それとも、これらの「違う道」、「特別な思い」は、やがてあなたに「類のない」幸せを味わわせてくれたのか。ん・・・あなたの答えが楽しみです。人生は山あり谷あり、きっとあなたの「評価」ははっきりしない時が多いでしょう。迷い込んだ時、自分が生きる意味が疑われるようなことが起きた時、この「タンタン物語」を是非、読んでみてください。きっと、ママがあなたの小さい頃にずっと耳元で話しかけた言葉を思い出すでしょう。
『少なくとも、ママがどれだけあなたを愛しているかを分かってほしい!』
あなたが強く生きてくれることが、ママの生きがいです。知っていますかタンタン?今のあなたは有名な「ママコン」です。ママが居るだけで、あなたはどんなものも欲しがりません。そして誰にもついて行こうとしません。あなたは、そんなにママのことが好きなのかなぁ?それとも、単にママの愛が足りない為、不安になった結果、ずっとママにくっついているだけかなぁ?いつか、ママの元から飛び立ちたくてたまらない日が必ずやってきます。その時もどうぞ、自分のライフストーリーを読んでみたらいかがでしょうか?大発見を約束します。タンタンが「ママコン」を卒業しても、パパとママは永遠に「タンタンコン」だよ。パパとママはこれから歳を取ります。段々うるさく聞こえても、パパとママのことを嫌がらないでね。だって、ママはただずっとタンタンを見守ってあげたいだけなのです。やはりあなたはいくつになっても、ママにとって永遠の赤ちゃんだよ!
ママはちゃんと知っています。あなたがいかに頑張って生きて来たかを。残念な現実ですが、あなたは生みの親にとって望まない存在でした。でもあなたは胎内で困難を乗り越えて生き残りました。この生きる喜びを誰よりもありがたく味わっているからこそ、いつも自然に素敵な笑顔を見せられるあなたは、ママとパパをはじめ、沢山の人々の心を暖める存在となりました。
あなたがうちに来たのは、○○年12月、生後七ヶ月の頃でした。その年のクリスマスは、寒いながらもあなたのお陰で、パパとママ、そして家族と友達が、最高の温もりで過ごすことが出来ました。あなたが生まれてくれた努力を空しくしないように、ママはいつも周りに手を借りながら、頑張っていますよ。ママがタンタンの楽しい成長を見守ることは、何よりも、二年前あなたが頑張って母親に生んでもらった努力の報いになると信じます。あなたが生まれてくれたその大切さを、誕生日のこの日、そして誕生日以外の364日にも、ママはちゃんと言葉にして行動にして、あなたに伝えて行きたいと思います。ママとパパの元に来てくれて、ありがとう~~と。
去年のキリスト復活祭に、ママはあなたにカトリック幼児洗礼を受けさせました。知っていますか?あなたの洗礼名は「テレサ」です。マザー・テレサのように、すべての命の尊さを見出すことの出来る心を持ち、いつも周りを幸せにしてくれる存在となりますよう、この洗礼名にママの深い期待が込められています。
さぁタンタン、この「ライフ」ストーリー、ママからタンタンへの「ラブ」ストーリーであり、タンタンがママから受け継いだ最高の財産となりますように、これからも一緒に手を組んで素晴らしい作品を作っていきましょうね!でも、ママは単なる物事を記録する役だけであって、内容そのものが素晴らしいかどうかは、やはりタンタン次第だよ。では、頑張って生きて行こうね、約束するわよ!
どうでしょうかタンタン、このライフストーリーをタンタンだけのドキュメンタリーにするのでなく、タンタンによって幸せになった人々のドキュメンタリーにもしましょうか?もしそうするなら、ママがまずその第一候補者になりましょう

『A’s story: 年上の女の子が入って 家族が揃った』

                       Hさん

私たち夫婦は福岡市に住んでいる。4人の養子に恵まれた。

国際的に二か国語で暮らしている。4人の養子縁組経験を紹介する。

私は2010年にまた大学に雇われて、家族で福岡に戻った。

それまでの三人子育てが上手くいっていると自信を持ったから、もう一人養子縁組できると思った。しかし赤ちゃんの世話は大変だったから、幼稚園児の子どもをお願いしようと思った。福岡市こども総合相談センターに相談して、7歳のAちゃんが勧められた。Aちゃんは我が家のKちゃんの半年歳下で、家族に合うと思った。Aちゃんは生まれてすぐから福岡市の児童養護施設に預けられていて、家族の経験が殆ど無かった。7歳という年齢での養子縁組の難点について考えた。例えば家族に合わない癖と習慣がある。また英語を話せない7歳の子を英語の家に編入する問題についても心配した。しかしAちゃんには家族が必要だと思って、清水の舞台から飛び降りるつもりで 委託を受けることにした。

最初にAちゃんは養子になる意味をあまり理解できなくて、短期訪問と思ったみたいだった。そこで永遠の家族になると約束した。しばらく素直で、静かだった。しかし施設に帰れないと分かってとても怒った。習慣、食べ物、また言語も新しくて、Aちゃんは慣れずに困った。家族は皆Aちゃんとは日本語で話したが、時々英語も使った。英語の言葉を聞くと、皆がAちゃんについて悪口を言っていると疑って怒った。よく暴れた。例えばドアの外に立ってドアを蹴った。また同じ歳のKちゃんや弟のC君をいじめて、そのことでは皆が苦労した。年上の子どもの養子縁組での当たり前の困難だと思ったが、これ程難しいとは思わなかった。養子縁組の決定を後悔する程だった。しかしAちゃんへの永遠の家族になるという約束を破ることは悲惨なことだと思ったから、我慢をした。子どもセンター、里子会、また教会の友達の支えは生命線だった。私たちはAちゃんが暴れるのに疲れて、時々友達にベビーシッターとして助けてもらった。このことに、とても感謝する。

しばらくすると、私たちは問題を大体理解した。年上の里子・養子は新しい家族を信頼しない。潜在意識で思うのは:「きっとこの家族は私を拒む。私が拒まれる前に 家族を拒む。その方が痛くない。」子どもが家族を信頼できるまで愛と忍耐が必要だった。Aちゃんが暴れると、できる限り怒らずに懲らしめた。重要な事は懲らしめてから愛を示すことだった。Aちゃんがどんなに暴れても、家族の大事な子どもであることを伝えて安心させようとした。半年でAちゃんがやっと現実を理解できるようになって落ち着いてきた。これで我が家の子どもになったと感じて、安心した。

家族に入ってから1年後に福岡国際学校に転校した。日本語を忘れずに英語も流暢に話すようになった。2年連続で学級のスペリングコンテストにも勝った。

4年半が経って、Aちゃんは素晴らしい娘になった。4人の子どもの内で一番おとなしく家事の手伝いをする。初めのころ自信がなく弱かったが、現在はピアノとバスケットボールを一所懸命習っている。家族はAちゃんによって大変助かっている。

これで家族が揃った。時々兄妹喧嘩もあって私たち両親は困り果てることもある。また4人の子どもの養育は経済的にも大変だ。しかし、それでも他の生活は考えられない。彼らは面白くて、私たち両親を喜ばせる。神様から素晴らしい4人を預けられた。私たちは永遠の家族であると信じている。その絆は血縁より強いと思う

『C’s story: 悲しい経験の後に縮れ毛の息子に恵まれた』
                                                             Hさん

私達夫婦は福岡市に住んでいる4人の養子に恵まれた。
4人の養子縁組経験を紹介する。
2002年に福岡から母国へ引っ越した。二人の子ども、L君とKちゃんに恵まれた。両親二人は忙しい大学教師だから、子どもは二人で十分と思った。しかし、数年後に妻は強いインスピレーションを感じた。それは肌が茶色の男の子が家族に入るという予感だった。それでもう一回養子縁組の申請書を出した。
間もなく若い妊婦Mさんが赤ちゃんを預けて下さる決定をした。生みの両親は白い肌、金髪の人々。茶色の男子ではないから不思議に思った。しかし選ばれて嬉しかった。
最近の母国の養子縁組は「open adoption」の傾向が最近見られる。1999年L君の養子縁組は「closed adoption」で、生みの母に会ったが、お互いに名字と住所を教えることができなかった。「Open adoption」では生みの両親と養子縁組の両親が直接に交流できる。生みの両親が子供の育ちにどのような役割を果たすのかは生みの両親と養子縁組の両親が互いに決定する。生みの母Mさんがおばさんのように、たまに遊びに来ることを望んだ。すでに「Open adoption」の研究報告を読んでいて、「お母さんは誰?」のミステリーを解決することが精神的にいいことと学んでいたし、Mさんが立派な人と思ったから、「open adoption」を合意した。Mさんは先に不幸な恋愛関係から離れた。ボーイフレンドは妊娠後の手伝いをしなかった。一人で赤ちゃんの面倒を見るより、私達家族に預けるほうがいいと決定した。Mさんは色々失敗をしたが、そのころ回復して、人生を改善しようとしていた。私たちはこのことに感動した。また、Mさんは我が家が好きみたいであった。ある日彼女が我が家を訪問した時話をしている間私は洗濯を終えた物を畳んでいた。Mさんが洗濯物を畳む私を初めて見て、「この家族がちょうどいい」と言った。
生みの父は妊娠中赤ちゃんを認めていなかったから、家族裁判所は父の親権を剥奪した。後ほど金髪の女の子が生まれた。「S」と名付けて、ホール家の里子になった。残念ながら、Sちゃんが家族に入ってから生みの父が後悔して、親権の回復を裁判沙汰にした。私たちは一週間裁判所に出席した。人生の中で一番怖い経験だった。結局生みの父の親権が回復されて、Mさんと共同監護になった。半年間一緒に暮らしたSちゃんが我が家から奪われた。今までで一番辛い経験だった。妻が落ち込んで、起床が難しくなった。
しかし、その二ヶ月後に、養子縁組施設からもう一回連絡があった。他の妊婦がその日に男の子を生んで、我が家に預けたいと言うことだった。母は白人、父は黒人だった。なるほど、茶色い肌の男の子。妻は直ぐ飛行機で迎えに行った。赤ちゃんが早産で、とても小さかった。また縮れ毛だった。「C君」と名付けて、日本でも母国でも使える名前にした。C君は元気で活発な男子になった。小学校一年生で友人を作るのが上手。Sちゃんの経験が悲しかったが、C君を育てることで悲しみを乗り越えて、賑やかな家族になった。
 
次回:年上の女の子の養子縁組で家族が揃った

『国際家族になる』                              Hさん

前回長男L君の養子縁組について説明した。

しばらくすると二番目の子どもが欲しくなった。しかし妻が大学に雇われて、2年間以上福岡市に住むことになった。家族が帰国するまで2番目の子どもを伸ばしたくなかった。外国人が日本で養子縁組する可能性があるかどうか分からなかった。福岡市児童相談所に訪ねて、夫婦両方が外国人の先例は無かったが、規則に問題はなかったから、訓練を受けてから里親登録した。

一年後に乳児院に養子縁組可能の一歳女子がいると教えられた。そこに行ってみると、一歳児の部屋の子どもたちがわいわいと私達を囲んだ。しかしKちゃんは注意深い子どもで、簡単に仲良くするわけではなかった。抱っこを許さなかった。彼女は「怖い金髪のおばさんは一体だれ?なんで毛深いおじさんが笑っているの?」と思ったかもしれない。近くに座って、Kちゃんが慣れるまで他の子どもと遊んで、徐々に仲良くなりやっと一緒に帰って、養子縁組へ進んだ。(この時、同じ乳児院にいたもう一人の赤ちゃんが将来の次女になると知らなかったが、7年後に家族に入った)。

L君は新生児として家族に入ったが、Kちゃんは一歳だったので、困難なこともあったが、元気な娘になった。小柄で、いつも学級で一番小さい子どもである。初めのうち体と声が大きい兄のことを怖がったが、Kちゃんは体が小さくても声が大きい。そのうち、声で兄を追い払えるようになった。Kちゃんは注意深かった。全く転ばない。自信が着くまで歩かなかった。なので歩き出した時には完全に歩いた。

「国際家族」になることを期待した訳では無かったが、家族で抵抗はなかった。どこでも明白に「血族ではない」と見られるのは難しいかなと心配したが、直ぐに慣れた。周りの人が殆どプライバシーを尊重して、私たちが養子縁組について言うまでに何も聞かなかった。

1年の内に私たちの母国に帰国して、Kちゃんは国籍を得て、母国の文化の中で育った。8歳で福岡に戻って、4.5年間日本の小学校へ行っている。現在家族の中で一番バランスのとれた二か国語を話す人である。両方のネイティブスピーカーである。

Kちゃんは優しくて、家族を大事にしてくれて、才能を伸ばしている。またKちゃんによって我が家と日本の絆が永遠になった。私たちは大変恵まれている。

次回:悲しい失敗の後に縮れ毛の息子に恵まれた

『4人養子に恵まれた』         Hさん

私と妻は若くて学生結婚した。両方が大家族から来た。

私は6人兄弟、妻は7人兄弟。数人の子どもを期待したが、学生だったので急がなかった。数年後に適した時期になったと判断した。しかし妊娠にならなかった。医者と相談して、不妊治療をしないと妊娠しないと言うことで、数回不妊治療を受けたが、いつも効かなかった。

1995-97年に留学生として福岡市に住んだ。領事館に働くアメリカ人家族と友達になった。白人の両親と3人養子(アメリカ白人、日本人、中国人)だった。とても仲がいい家族で、両親が子どもに自由に養子縁組について話したのがびっくりした。突然な「通知」ではなくて、自然に母さんが子どもに出産日の話の如く、笑いながら家族に入った日の経験、例えば当日の服、当日の食べ物について話した。皆さんに喜びの日として扱った。それで養子縁組は違和感なしにできると安心した。1997年に養子縁組の申し込みを準備し始めた。

私達はキリスト協会の家族福祉機関に相談して、里親・養子縁組の研修と申し込みをした。まだ、貧乏な大学院生だったが友達と家族の財政援助によって費用を払った。そして、生母への自己紹介の手紙を書いた。

ある日養子縁組機関から妊娠中の若い女性Eさんが私達を紹介した手紙を読んで、私達に赤ちゃんを預けるように決めたと知らせて来た。赤ちゃんが生まれる前に直接Eさんに会ったが、お互いが名字を教えない規則があった。

1999年1月Eさんが男の子を出産して、赤ん坊L君が里子として家族に入った。最初は目がずっと閉じていて心配した。しかし、元気な男子になった。6ヶ月後に養子縁組が決定した。

Eさんの犠牲の精神に感謝している。彼女はやっぱり胎内の赤ちゃんを愛したが、子どもの面倒を見られる状態ではないと考えて、私達夫婦に預けることを望んだ。その時からEさんと直接連絡できるようになって、たまにfacebookを通して話す。その後、Eさんが結婚して、夫婦で三人の子どもに恵まれた。

L君は立派なお兄さんになって、私達とEさんはお互いに彼を誇りに思っている。


     巣立ち式 里子と里親メッセージ交換


「一番大好きな歌で進学することを応援してくれてありがとう」

                       里子 Aさん

私は学校に行くのが嫌いでした。自分に自信がなく、学校に行ってなんで私はこんなに声が低いんだろうと感じるのが嫌いでした。

高校一年の時に、初めて声楽というのを知り、習い始めました。

声楽を通して、響きやすい大きな声、かわいげのない低い声も声の出し方できれいに歌うことができると知りました。

すると、あんなに嫌だった自分の声が段々好きになりました。

声楽を始めたことで、自分に自信がつきました。

そこで私はもっと深く勉強し、音楽を通して人は変われることを伝えたいと思い、音楽大学への進学を決めました。

初めて両親に伝える時、反対されたらどうしようと、とても不安でした。

けれど私の両親は、「Aのやりたいことなら応援する」と言ってくれました。

お父さん、お母さん、

私が一番好きな歌で進学することを応援してくれてありがとうございます。

いつか必ず大きな舞台で歌っている所を見せられるように頑張ります。


「私達を、お父さんとお母さんにしてくれてありがとう」

                        Y(母)さん

本日は、娘のために巣立ちの会を催していただき、ありがとうございます。

平成○年三月、ひなまつりの頃に生まれました。

その日は、とても晴天で暖かな春がやって来たと思えるような日でした。

長女と二人でひな人形を片付けていたので不思議と、その日の事をよく覚えています。

小さな頃よりおしゃべりが大好きで、よく笑う明るい元気な子でした。

二歳の頃歌が大好きで、長女が幼稚園に入園し、幼稚園バスで帰ってくると急ぎバスに近寄り、ドアが開くと同時に大きな声で一曲歌っていました。

幼稚園バスは出することができず、先生からは”お上手ですね”

褒めてもらい、それが嬉しくて毎日歌っていました。

小学校中学校と辛く、苦しい事も沢山ありました。

告知をした頃が、一番辛かった様です。

しかし、一つ一つ家族で超えてきました。

私達の子どもとしての法の手続きをする際に名前を、

ひらがなから漢字に変えました。

「人生というステージで、スポットライトを浴び

        沢山の拍手喝采を預けるように」との願いを込めて・・・・。

これから大阪で声楽の勉強をします。

努力しなければならない事も、沢山あると思います。

またその先で、人前で歌う事もあります。

歌う前に”私の歌声で皆さまが幸せになりますように”と心に念じ、

歌ってほしいと思います。

十八年間、沢山の楽しい思い出をありがとう。

そして何よりも私達を、

        お父さん、お母さんにしてくれてありがとう。

「主人と共に歩んできた『里親』という名の人生」

                        里親Tさん

現在17歳から3歳までの里子6名、息子(特養)合計9名で暮らしてる。

補助者、アルバイト4名でシフトを組み、時には実子夫妻、孫も加わり、

賑やかな日々を送っています。

うち1名は特別支援学級に通っており、自分達で育てた季節の野菜を持ち帰り、

食卓を彩ってくれています。

17歳の女の子は食堂のアルバイトの為、朝5時に起きて6時からの仕込みに

向かいそのまま今度は昼のシフトに入ります。

本当によく頑張っています。それも、間近に迫った18歳での自立のためです。

熱があっても仕事に向かうその後姿を見送りながら、

「里親制度の20歳までの延長」を願わずにはいられません。

ある年の冬、突然主人が倒れ、生活が一変してしまいました。

当初は何も考えられず、1日3回の面会に行き意識のない主人に声をかけ続けて

・・・手を擦り・・・ただただ「希望」だけは失わずにいよう!と自分に

言い聞かせていたように思います。

倒れずにここまで来られたのも、子ども達がいてくれたおかげだと思っています。

ありがたいことに、元里子達が交代でホームの手伝いに来てくれました。

「お母さん、絶対に里親を辞めんで!!」

「ここはうちらの実家やけん!!」

母や、親戚、実子の前でも涙をこらえてきた私でしたが、初めてこの子達の前で

泣きました。ありがたくて、うれしくて、本当にありがたくて・・・。

今はリハビリの甲斐もあり、杖で歩けるようになりました。

失語の方は、まだまだ時間がかかりそうですがゆっくりと、回復しています。

主人と共に歩んできた「里親」という名の人生も17年を過ぎました。

神様から少し早目に「主人と二人の時間」を頂いたような気がしています。

今我が家で暮らす子ども達も、様々な問題を起こしています。

時には倒れそうな時もありますが(笑)、

「片目を閉じ、片耳を塞ぎ」心だけはいつも寄り添いながら、

これからも歩んで行こうと思っています。



『ママと呼ばれて』             里親 A さん


里親になって初めてお預かりしたのは二歳の男の子、三歳の女の子、六歳の女の子の三姉弟でした。この三姉弟との生活はわずか10ヶ月と短いものでしたが、

今でも三姉弟のいない空虚感、喪失感を埋めることができません。
両親は日中、夜間問わず家にはおらず、肩寄せ合って生きてきた姉弟でした。

出会えた時「よく生きていてくれたね」というのが正直な感想でした。
4人の生活が始まると子どもたちは意外にすんなり我が家の生活を楽しみ始め、
二歳になったばかりの弟は委託初日から素直に甘えを出してきて

驚かされました。
甘える体験をしたことがないはずの弟は本能的に甘えを求めているようでした。
そして甘えを知らない三歳のお姉ちゃんは弟が抱っこされるのを見て、
見よう見真似で同じことを求めてきて、甘える心地よさは後から

分かってきた感じでした。
六歳のお姉ちゃんはというと今まで二人の面倒を、ずっとみながら生きてきていたのでその世話から解放されて生き生きと自分のしたいことをしていました。
そんな六歳のお姉ちゃんが委託初日に
「今日からAさんのことママって呼ぶから」と宣言。戸惑いまくった私が
「でもYちゃんにはママがいるでしょ」というと
「今日からAさんがママの代わりをするちゃろ。だからママでいい」と言い、なんの戸惑いもなく「ママ」と呼ぶお姉ちゃんでした。
しかし私が自分ことを「ママ」と呼ぶようになるまでには

半年以上かかりました。
そしてまだ言葉が出ていなかった二歳の弟も言葉を覚え始めると自然と「ママ」と呼ぶようになっていました。弟の口癖は
「ママがいっちばん、いっちばーん、だーいすき」でした。
今でもその言葉の響きはずっと耳に残っています。
お姉ちゃんは
「パパとママが病気で入院しているから病気がよくなるまで、Aさんちにいようね」と言われてきたようで常に
「Aさんちにずっといていい?」と聞いてきていました。
「ずーっといていいよ」と言われ安心してくると今度は
「ママはっずっとここにおると?」と聞いてきていました。
安心していられる場所、そしてずっと見守ってくれる人がいることが子どもたちにとってどれだけ救いとなることなのかを改めて知らされました。
そして半年ほど過ぎたある日の夕食の時にお姉ちゃんが
「ママ、天国に行っても一緒にいようね」と言ってきて、
「うん、一緒にいようね」と言ってあげればいいのに
「でも天国って人が一杯いるんじゃない。Rちゃんを見つけきるかな?」

というと
「じゃあ待ち合わせしよう」
「天国に駅があるからそこで待ち合わせしたら大丈夫」と。
ずっとずっといていい安心できる居場所。そして、ずっとずっと一緒にいてくれる人を子どもたちは求めていることを感じさせられました。

そんな三人との別れは突然やってきました。別れを聞かされその日までわずか二週間余りでした。
私自身の心の整理もできず、子どもたちが納得することもできないままの別れはかなり辛いものでした。
「ママがいい」
「ママの所におる」という子どもたちに
「いいよ」と言えない辛さは
今も心に残っています。三人に出会えたことに感謝しつつ、今はただ子どもたちの幸せを願うばかりです。

風に吹かれて、ねこじゃらし(Uの言葉の記録        

                        里親 I さん

3月23日、「おひがんってなに?おはなもっていくよね。」春と秋に仏様におまいりに行くことだよ。仏様ってお父さんとお母さんの、お父さんとかお母さんとか。「むつかしいね、Yはだれがうんだの?」YはYのお母さんから生まれたよ。「Yのおかあさんは、とおいところにいるの?」そうだよ。「ぼくも、ぼくのおとうさんとおかあさんがとおいところにいるって、きいたことがある。」


3月26日、雨。「あめで、ばいくがすべるからきをつけて」


3月31日、お風呂で百人一首を覚え始める。「はるすぎて、なつきにけらし、しろたえの」


4月5日、レストランで貝殻のオブジェと木彫りの鯨を見て「てづくりやん!」


4月23日、「ようちえんでふうせんのヘリウムガスのことはなしたら、せんせいがヘリウムガスとかしっとうと?ていわれた」


4月24日、道端の花を見て「なんのはな~?」と聞く。キキョウやカタバミ、マメ科の紫の花が咲いている。


5月14日、幼稚園では英語の授業。夕食時に「トマトは、トゥメィトゥ?」


5月15日、自転車道で「へんなむしがいるぞーい」という。これはゾウムシだよ、鼻がながいでしょというと「おおきくなったら、ゾウになる?」


5月16日、隣の畑へ行き「みかん、大好き」と言って甘夏を二個もらって帰る。


5月20日、強い雨が降り、風が吹く。「おうち、こわれる?」と聞く。「どうして風がふくと?」温かい夏の空気と、冷たい冬の空気が押し合いをしてるんだよ。


5月21日、バイクがパトカーに捕まるのを見て「バイクすごいスピードやったね、ゆっくりはしるとたおれるから、とばしよったと?」


5月25日、中学校の池に落ちて泥だらけ、「おさかなをとろうとおもって」 


5月26日、公園のロープから落ちて鼻を打ち、「びこつ、おれてる?」薬を塗って眠った翌朝、腫れが少し引く。「おかあさんのまほうがきいた」


5月28日、歯医者の帰り、「ゆうひをみにいく、あのやまにのぼる」とどんどん西に向かって歩く。狸かアナグマがゆっくりと道を横切る。


5月29日、散歩の途中、垂れ下がった枇杷の実を「とっていいですか」とおばあちゃんにせがんでいただく。


6月3日、遠くの観覧車を見て、「カンランシャ、うごいていかんと?」と聞く。同じ車なので、なぜ転がっていかないのか、不思議に感じている。


6月5日、このところ、幼稚園バスは故障のため、レンタカーで運行している。「たばこのにおいがする。こどもにはよくないね。」


6月9日、おやつにイチゴシャーベットを食べる。お母さんのを見て「ひとくち、あじみさせて」一口食べて「ひとくちじゃ、わからん」ともう一口食べて「もうすこしたべんと、わからん」と三口食べ「れもんだ、すっぱいね」といいつつ取り上げてしまう。


6月10日、お母さんの買い物についていく。「きょうはからあげにしよう!」と唐揚げ用のお肉をかごに入れる。その後も「えびはいかがですか?」「おさしみはいかがですか?」と店員になって売り込みを続ける。


6月18日、幼稚園バスを待つ間、道端のネコジャラシを摘んで「かぜにふかれて、ねこじゃらし」と短歌のように口ずさむ。



『新人の養育里親です。~あの頃を振り返って~』       

                            里親Kさん
Sくん8歳2年生。Rくん5歳年長さん。

2人の兄弟が、うちに来て8カ月がたちました。
2月に受託して、1か月は大変疲れました。私の生活の変化。

子どもたちとの関係づくり、慣れるまでは保育園状態で生活をしました。
洗面所へ行くのに汽車ぽっぽ私を先頭に2人が後ろに連なり移動します。

布団を敷くと、布団の部屋は夢の国への入り口。

夢の国へ行く人は布団に入って~、という具合です。

それらが彼らとの関係づくりでした。
兄のSくんは、2月の半ばに新しい学校へ通い始めました。家の目の前が学校ですから、彼にとってはラッキーだったことでしょう。

しかし1週間が過ぎたころから学校への行き渋りが出てきました。
担任の先生は、良い方で彼の状況を理解してくださり、

いろいろ配慮くださいました。
最初は一緒に教室まで付いていき、教室に入れて「いってらっしゃい。」と

別れました。
「勉強したくない。」と、玄関から動かないこともありました。
その時はカバンを置いて、手ぶらで彼の手を引いて学校へ行きあとでこっそりカバンを学校へ持って行きました。またある日は、同じマンションの2年生のお姉さんと同級生の女の子に迎えに来てもらいました。

最初は嬉しそうに通ったSくんですが1週間でまた行き渋り。
次はつくしんぼ会で一緒の3年生のお姉さんにお願いして迎えに来てもらい
また嬉しそうに通いました。
そうこうしているうちにある日
「あしたは、エレベーター前まででいいから。」と言って、

次の日から一人で行くようになりました。
その日は日直の日だったようです。

クラスの中で彼の居場所が見つかってきたのでしょう。
2年生のクラス替えを心配ましたが、大好きな1年生の担任の先生がまた受け持ちとなり安心しました。また同じマンションの同級生の女の子が同じクラスとなりその子と一緒に学校へ行くようになりました。彼女は、活発でしっかりしていてまるでお姉さんのようです。
担任の先生は学校の様子など気になることは、電話で連絡くださいます。
2年生のクラスの同級生は、彼の特徴などを理解して接してくれています。
これは先生のクラス運営の賜物だと感謝しています。

弟のRくんの幼稚園探しは、情報がないなか困りました。
Sくんの学校への行き渋りなどがあり、

4月まで待って入園という余裕はありませんでした。
私が体力的にも心理的にも疲れるので、

昼間は幼稚園へ通わせたいという思いでした。
しかし、行かせるにしても納得いく幼稚園にしたかったので、紹介していただいた幼稚園を見学し園長先生に対応いただき詳しい説明を受けましたが、
年度末での2月に受け入れることは難しいということでした。
そんな時に、私の同級生と会う事があり、幼稚園の話をしたところ
息子さんを通わせた小規模の幼稚園のことを紹介してくれました。
当時は2クラスあったようですが、

今ではそれぞれの学年が1クラスになっていました。
早速、連絡して見学に行きました。

昔は田畑に囲まれた幼稚園だったようですが、
ここ何十年で周りはマンションに囲まれ、見落としそうな幼稚園でした。
今流行りの、早期教育を行っている幼稚園でもなく、ある意味地味な
昔ながらの幼稚園という感じでした。
園長先生は「いつからでもいいです。明日からでもいいですよ。
他の幼稚園も見学されましたか。」と。来てください、というような勧誘もなく好きなように、とあっさりされていました。

1クラス12人と聞いて、ここにと決めました。
今では14人に増え、Rくんは楽しく幼稚園へ通っています。
長期休み時には、お兄ちゃんのSくんも一緒に預かり

保育をしていただき助かります。
今でも食欲旺盛な2人ですが、来た当初は、

どれくらい食べられるのかわからないので、
好きなだけ食べさせていると、もどしたりしていました。
大変だったのは夜中に突然に起きて布団の上でもどされたことです。
部屋中に臭いがこもり毛布にも臭いがついてクリーニングにだす始末でした。
今ではもどすということはありませんが、よく食べます。
また、夜中に突然に起きて泣き出したりもしました。
長い時は30分ほど泣いていました。

構ってやると余計に泣くことが分かったので、
そのまま様子をみるようにしました。

本人は覚えていません。怖い夢をみたのか、
何かのフラッシュバックがあったのか。この状態も今では無くなりました。
我が家では、基本的には子どもたちにテレビを見せない、
ゲームはさせないという方針にしました。

「子どもとメディア」の研修を受けてから、
子どもに対してテレビは良くないと思ったからです。
我が子の時は何も考えずに付けっ放しの状態でした。
テレビ好きの夫にとっては、苦しかったようです。
ある日子どもたちのことを知り息子が

「お母さん、せめてキョリュウジャーだけは
見せてあげたら、可哀想だよ。」と。日曜日の朝、○○レンジャーは今でも子どもたちにとって楽しみの番組のようです。

現在、我が家で唯一見せているテレビ番組です。
テレビが見られないとわかると2人で仲良く遊んでいます。

兄弟はこのようなところが助かります。本を読んだり、絵を描いたり、それなりに時間を過ごしています。
しかし、今は友達関係が広がりつつあり、友達のところへ行ってゲーム等しているようです。
「どうしてここはゲームができないの。」「ゲームを買って。」と
言ったりしてくるようになりました。
交友関係が広がってくると他所と比べて、ということがいろいろ出てくるだろうと思います。
これからどう対応していくかまた難しいところかなと思っているところです。
おもしろいのが、

2人の寝ぞうの悪さです。こんなに動き回るものかと驚きます。
180度はもちろん。いつの間にか、間に寝ている私を飛び越して

隣の布団に寝ていたりおもしろい格好をしていたり、私は記念写真にと撮って
見るたびに吹き出してしまします。
また、2人同時に抱きついてきたり、可愛いのですが2人の体重を合わせると50Kになる重さ。私も夫も腰を悪くしそうです。
忙しい毎日ですが、楽しいことがたくさん起こります。。
楽しい思い出をたくさん刻んで
それがこれからの糧になればと祈っています。

『じぃじぃ』
                           里親Sより
車を降りると、急いでマンションの3階まで駆け上がりチャイムを鳴らす。
「ガチャ」っと解錠の音を聞くと、すぐに扉を開け玄関に入る。
いつものとおりMが迎えてくれる私は挨拶もそこそこに部屋の奥に視線をやる。
そこにはやはりいつものようにYがいる。
「Yちゃん、Yちゃん」。
Yは満面の笑顔と体中で喜びを表しながら、私の居るほうへ這いよってくる。
私がMと会ったのはMが小学校4年生のときだった。その年、里親登録をしたばかりの私たちは、MとSの姉妹をお盆里親で預かった。

可愛くて可愛くて毎週末お泊りをさせるようになった、キャンプや旅行に行って沢山の思い出ももらった。

委託してもらえるよう何度も児相にお願いしたが、母親の同意が取れないと断り続けられ交流は2年間続いた。

やっと委託が可能になった時児相から条件が付けられた。
M達は4人姉妹なので受託するなら4人一緒にお願いします、とのことだった。
一瞬躊躇したが、2人も4人も同じことだと預かった。
一挙に小学校6年、4年、3年、2年の4姉妹の親となった。
確かに大変だったが、里親にならなかったら味わえなかった沢山の思い出、
中学、高校そして措置解除、成長とともに親の手から離れていく寂しさ。
Mもそうでした、彼女は短大進学のため措置解除後も我が家から通学し、
卒業後も我が家から通勤していたので、早く自立して欲しい反面
このままずっと居て欲しい気持ちもありました。
しかし、就職して1年ついに巣立っていくときが来ました、
自分でマンションを見つけて自活を始めたのです。その時初めて、
こうやって1人ひとり巣立っていくんだなぁと、

寂しい現実を思い知らされました。
その後Mは結婚をし、1児の母親になりました。
出産前後の数ヶ月は我が家を実家として戻ってきました。
小さな小さな命を私に抱かせてくれます、初孫が出来たのです。
赤ちゃんは日に日に目に見えて成長していきます、
そして家中を明るくしてくれます。けれど、
またM達は自分たちの住まいに帰っていきました、

でも私は今度は寂しくありません。
Mの家の玄関から、這いよってくるYのところに急いでいってこう言うのです
「Yちゃんじぃじぃが来たぞ」。

私は生後8ヶ月のその小さな体を抱きあげながら
「高い高い高い、じぃじぃだぞ」しっかり抱きかかえ頬ずりをし

「じぃじぃだぞ」至福の時、もうメロメロです。
もし里親をしていなかったら、絶対味わえなかった本当に幸せな時間です。

『巣立ちの日に~Mと出会い、私達、親の世界も広がった~』
                         里親Yさん(母)
Mとの出会いは、平成七年の春乳児院を訪問した時、
ベビーベッドの中から、じっと私達を見つめている子がいて、
足を止めました。この時の事を忘れる事が出来ません。
幼稚園、小学校、中学、高校と、Mを通し、
私達、親の世界も広がった様に思います。
たくさんの方々との出会いや、色々な経験をさせていただきました。
 Mと出会えなかったら、こんなに楽しい人生は、なかったでしょう。
今Mに感謝しています。
苦しい時、悲しい時、Mと共にのり越えてきました。
センターの先生方にも、助けて頂きました。
勉強では算数が苦手で、泣いておりましたが、
高校最後の通知表で数学”5”を見た時、
頑張ってきたのだと、感心しました。
Mは、思いやりのある、やさしい子に育ちました。
私共からみても、うらやましいくらいのたくさんの友達が居て、
誕生日などは、抱えきれないくらいたくさんのプレゼントを、
持ち帰ります。
これからも、まわりの人を、大切にして、
幸せな人生を歩んでほしいと、心より願っております。
たくさんの思い出を、ありがとう。
また、これから、大学生活、楽しいものにしていきましょう。


『出会いの喜び』                   

                            里親 Fより

私達夫婦は里親になって5年です。

初めて出会った子は今も一緒に暮らしているY君小学4年生。
なかなか二人目委託は無いままですが、

一時保護で男の子2人女の子1人を預かりました。
文字の通り一時保護の子との時間は1日だったり3日だったり

2ヶ月だったりとさまざまで、その時その瞬間がとても貴重な時間です。
ほんの数時間一緒に居るだけで沢山の体験をさせてくれる

この出会いに日々感謝の気持ちで一杯です。
本来なら親と共に過ごす時間を守ってあげる取り組みが大切

なのでしょうが出会いを待ってしまうほど子どもとのふれあいは

素晴らしい時間です。
あっという間にY君とも5年の月日が流れました。

女の子の子育て経験はあったものの男の子は初めてで

最初は比べてしまう育児でした。
しかし、里親サロンに参加し沢山のアドバイスを受け段々とその違いに面白さが感じられる様になり笑顔が絶えない日々になりました。辛い時も沢山ありますが喜びはその数倍以上あります。
周りから変人扱いされた時もありましたが、

今振り返っても私達夫婦は里親になれて良かったと思います。
そして、子どもとの出会い、同じ志を持つ方達との出会い、
専門家の方との出会い、そして育児のノウハウが勉強できる機会との出会いなどを経て沢山の繋がりに広がりました。多分里親になっていなければ私の交流は近所付き合いに子どもの学校関係止まりだったと思います。沢山の方に里親制度を知ってもらい、またなってもらい、新しい里親さんとの出会いを楽しみに、これからも、里親会への協力を皆さんと共に頑張っていきたいと思っています。


『回り道、早道などいろいろしながら』          

                             里親Kより

無事に入学式も終わり、授業参加も終わり、ふっと一息つけそうです。

ここまでくる間、悩みに悩み、

月日が流れ、これでよかったのかなと思っています。

S君は二つのハンディキャップを持っています。

集中力が弱く、目からの情報が入りすぎるS君にとって大人数の中で集中して授業を受けることは難しいと思われました。

また急な予定の変更なども苦手なので、個別な配慮が必要とされました。去年足の手術、リハビリのため5 カ月間母子入院をし、上手に歩けるようになり、走れるようにまでなりましたが、ちょっと押されただけでバタンと倒れ、左手の麻痺のため手を上手につくことができず頭から倒れたりなどまだまだ危なっかしい状態です。また血液の因子の問題で出血したら止まらないという傾向があり、安全に学校生活が送れることが重要です。

また左片半麻痺で体幹のイメージがまだまだついておらず、そのことで字を書くこと、絵を描くこと、積み木等々見えない何かが障害となっているようで、それを何とかしなくては前に進めないように感じていました。

そこで、それらのものを克服していける学校選びとなりました。地域の学校は教室が二階にあり、階段の上り下りや、不意に押された時にスムーズに対応できないので、安全の確保は難しいようでした。次に情緒障害の支援学級は環境の変化、急な予定の変更など個別に配慮もあり、集中して勉強できる環境も用意されていましたが、やはり二階の上、階段も沢山ありました。

次に肢体不自由の特別支援学級は一階に教室もあり、二階にある一年生のクラスに行くにもエレベーターがあり、交流もできます。安全の確保、個別の指導どれも確保できそうでしたが、

教育センターの教育相談では情緒の支援学級の判定でした。

そこで再度教育相談をお願いし、S 君の気になるところ、親の願いを話し相談に乗ってもらいました。

結果は特別支援学校となり、毎年教育相談をして、その時のS 君にとって、どこが一番いいか考えていきましょうということになりました。

ところで、みなさんは居住地校交流って知っていますか?地域の学校にも席を置き、地域の子供とも一緒に学習するもので、S 君も希望して、地域の小学校にも行くことになり、二つの小学校の入学式に参加しました。

とても楽しそうでした。

S 君は今、周りに追われることなく、自分のペースで靴を脱ぎ上靴に履き替え、

できることを褒められ成功体験を増やしています。

 自信持って次のステップに進めるよう、頑張ってほしいと思います。

 回り道、早道などいろいろしながらママと一緒に頑張っていこうね、S 君。


『男の子って』                    

                            里親Yより

C君、あなたはね、ママにとって、初めての男の子なの。

C君が来るずっと、ずっと前に、女の子三人のお母さんだったのよ。

三人共大きくなって、みんな大人になってしまい、

ママ一人になったその数年後、男の子が我が家にやって来ると聞いた時

ママは、とっても嬉しかったのよ。

だって一度、男の子を育ててみたいと思っていたからね。

ところが、

ショックだったのが外に出ると、ママを睨みつけて

「ママ、大嫌い!」「あっち、行け!」と言って、

他のお母さんやお姉さんの所に行くし、

スーパーのレジに並んでいたら

知らない後ろのおばさんに抱っこされているし・・・。

すぐ、仲良くなれると思っていたのに、

うまく心が通じない時期もあったよね。

でも、昨日二人で自転車に乗って、行きはC君が勝ち

帰りも競争しようとしたら、

「おれ!手抜きしてやろうか?」と言ったでしょう

あの時ママ、笑いを耐えながら

C君が来た頃よだれかけをしていたのを思い出していたのよ。

いつの間にか成長し、四歳半で補助輪なしの自転車に乗れるようになり

今じゃ、20インチの自転車を片手運転しているし、

自分の事を「おれ」と言う時、お兄ちゃん顔になっているよね。

「ママ、いつまでも元気でいてね。」と

優しい言葉をかけてくれる男の子になってさ。

そんなC君も、中・高校生になったら口の周りにうっすらと

髭が生えてきて、余りお喋りしてくれなくなるのかしら?

ママはお酒を飲むのが大好きだから、

C君と(C君のガールフレンドも一緒かなぁ)お酒を飲む日が来るのを

楽しみにしているよ。

その時もう一度でいいから、

「ママのお腹から生まれたかった。」と言ってもらえたら最高の幸せです。

ママの永遠の恋人C君、宜しくね。


『記念すべきクソばぁばぁと言われた日』          

                            里親Tより

我が家では朝ご飯を完食できれば、

おやつを自分で選べてテレビも一時間見られます。

しかし残すと私が選んだおやつになります。

そんなやりとりを息子が年中さんくらいからやっているので年長になった

この頃は、園バスから降りてくる息子のテンションが違うのが

おかしくって、ついつい心で笑っている、いじわるな母なのです。

この前は妹の完食を持ち出してきて、

私と交渉しようと一生懸命お話をしてくるのです。

「お母さん、妹が完食したから妹が一時間見たいんだって」

私は「へェ~そうなんだ~、そうね、完食しているから一時間だね。」

って、にっこり笑って返事をしました。

普段、テレビをあまり見せないので、二人はとても満足気な表情でした。

そして一時間が経ったので「はい、終わりだよ。」

ってテレビを消そうとすると、息子は「あと一つのお話。」と言って、

また交渉してくるのです。(これもおかしくって(笑))

「一時間って決めているもんね、おしまいだよ。」と

親の私も固い決意です。

すると納得いかない息子は「お母さんなんか嫌い。」

「いじわる。」「もうお母さんと口きかんけん。」と色々

言ってくるのです。

私は「いつもこうなんだよなぁ~。」って聞き流していました。

しかし、この日は

「お母さんなんかくそばぁばぁ。」と言うのです。

真っ赤な顔して言うのです。

もうおかしくって、使うタイミングも合っていて、

そんな発言をした息子に腹を立てるどころか

「こんなこと言うくらい成長したんだなぁ~。」って感じた私でした。

今、私に余裕があるのかもしれません。

年長になり、お手伝いをしてくれるようになり

私がキツそうにしていると、労わって元気付けてくれる息子。

小さい頃はただ泣くだけだったけど、

今では、私達親を元気付けてくれる頼もしい存在になりました。
数年前の私なら「くそばぁばぁ~。」なんて子どもから言われたら

「何~。」と怒鳴って、叱っていたにちがいありません。

私達夫婦はこうやって

「子ども達から親にさせてもらっているんだろうなぁ」と

つくづく感じた出来事でした。

『宝物』                        

                             里親Mより

「かあちゃんの笑った顔が好きだよ!」

何気ない会話の中に6歳のSちゃんは、時々私にそう言いました。

子どもの気持ちとしては、素直にそう思う反面、

怒った顔ではなく笑った顔の私ともっと向かい合いたいと言う

メッセージが込められていたのでしょう。

Sちゃんは、体も声も大きく行動もたくましくて、パワフルでした。

外遊びは木登りが大得意で、保育園や公園ではどんなに太くて

高い樹でも見つけるとじっとしていられず、

いつの間にかてっぺんまで登っていました。

鬼ごっこや縄跳びなど走り回るのが大好きで、おろしたてのズボンの

膝はその日に穴をつくって帰ってきていました。

私に甘えたい時になかなか甘えられず、

わがまま言って怒られる事の方が多くて、

そのストレスがSちゃんのパワーをさらに大きくしていたのでしょう。

そんな時、私の心に突き刺さったSちゃんの言葉

「かあちゃんじゃなくて、○○さんの方がよかった!

               だって、○○さんはやさしいもん!」

いつものように、片付けられないSちゃんを怒った後に

言われた言葉でした。

母親(里親)失格の烙印を子どもから押された気分でした。

赤ちゃんのTちゃんが家にやってきて間もない頃で、

Sちゃんも半年の生活でやっと環境に慣れた時の事でした。

後になり冷静に思うと完全に私を試す為の言葉だったのです。

その後Sちゃんと別れする事になり、約半年が過ぎました。

そして、今になってSちゃんが残してくれた言葉の宝物が、

沢山ある事に気付きました。

中でも一番は、

「かあちゃん、いつもおいしいごはん作ってくれてありがとう。」です。

二年の間に何十回、何百回聞いた事でしょう。

いつも美味しいそうにモリモリ食べて、

ご飯一粒の中にも神様がいる、と

お茶碗にくっついているご飯粒はお茶を流して最後まで食べていた事を

思い出します。

最近、ご飯作りに前ほど気合が入りません。

Sちゃんの言葉の魔法の威力は大きかったと思います。

里親になって三年。

子ども達との生活は、一日一日が難しくもあり癒しでもあります。

少し時が経って思えるのですが、

私よりも子ども達の方が強さやたくましさ、

そして優しさを持ち合わせている事に気付かされます。

その子ども達が、私との間に安心・信頼の絆を作ろうと一生懸命です。

それに私らしく応えられるようこれからも、

子ども達の言葉に耳を傾け、心を傾けていこうと思います。

最後に、

Sちゃんからのメッセージで締めくくりにしたいと思います。

卒園間近のSちゃんが、

保育園で一針一針縫った手作りのふきんと一緒にお手紙です。

これも私の宝物です。

「かあちゃんへ、

いつもいそがしいのに、おいしいごはんつくってくれてありがとう。

                      だいすきだよ♡Sより」


『R君M君の卒業式に贈るお祝いの言葉』            

                            里親Sより

君達は中学三年の夏から我が家に来ました。

うだるような暑い日だったのでよく覚えています。

いつの間にか四年近く経っていたんですね。

里親と言うのは何の遠慮気兼なく話し合える親子になろうと努力します。

ところが、小さい子だったら「お父さん、お母さん」とすぐ懐いてくるけど

君達のように大きいと育った環境が違うし、

自分を持っているから難しかったね。

M君は生き物が好きで部屋のタンスの中にカブト虫の幼虫を飼ったり、

押入れの中で小鳥を飼ってバタバタ暴れて羽や餌が散らばったり・・・。

R君は月に二~三回自転車で一時間もかかる新聞集配所のお兄ちゃんの所へ行って徹夜でゲーム三昧してクタクタで帰って来て本当に心配しました。

そんな君達に一つ関心したのは、

高校三年間弁当箱に何も残さず空で帰って来た事です。

作る者にとってこんなに嬉しい事はありません。

八人の大家族で身体を使って良い事しようと日課やルールを決めましたね。

当番で夕食後のお茶碗洗いとお風呂掃除、

第一日曜の朝はバス停掃除、又町内会の一斉掃除、

秋には桜の枯葉が散るので早朝の道路掃除・・・。

今、色んな事が走馬灯のように浮かんできますが、

後数日で君達が巣立つのが信じられません。

最後に君達にはなむけの言葉を贈ります。

かつてアメリカの大富豪と呼ばれた鉄銅王

アンドリューカーネギは貧しい職工の子として生まれ、

十二歳の時には既に親を助けたい一心から製綿所で働いていました。

そのカーネギは

「私が成功したのは決してマジックやカラクリを使ったのではない、

        ただ与えられた仕事を忠実にやっただけだ」と言っています。

社会は思った以上に厳しいし、職場で嫌な時があるかもしれません。

そんな時は、この言葉を思い出して頑張ってください。

皆で応援しています。

いつか元気な姿を見せて後輩の為にアドバイスしてくれたらなと思います。

今日は本当におめでとう。