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『4姉妹を受け入れたのがビレッジの始まり』 アガぺビレッジ里父AY

 

福岡市が独自にグループホームの制度を作った時に4姉妹を受け入れたのがビレッジの始まり。グループホームは「キャンプヒル古屋敷ビレッジ」と名付けた。広大な農村ビレッジ地帯に子どものそれぞれの家族が点在しているイメージだ。現在、高2女子2人、中2男子2人、小5男子1人の計5人。FHが抱える問題はKM先生のたんぽぽホームと同じ。子ども同士の人間関係創成、一人子どもが転出、それに代わって新しい子どもが転入すれば全く初めからの関係造り、それに里親、スタッフは巻き込まれ四苦八苦する。30年間繋がっている隣に住む元里子は結婚して2児の母親、養育のアドバイスを自らの経験から語ってくれる。里親は里子の将来を心配して色々なことを要求するが、里子は「命が保証され生きていることが原点」と代弁する。子どもが様々な問題を抱えてなんとかしなければと思うけれど「いのち」を守るというのが里親の立つところと言うのだ。

 

元里子は「FHには限界がある。子どもたちの思い悩みが理解されていない。」とも。

 

子どもたちのことを理解してきたつもりでいたが、子どもの心の深い井戸に里親やスタッフの鶴瓶は届いていないのか。

 

子どもが大好きなので、子どもといると嬉しい。問題があるとファイトが湧いてくる。里親夫婦は感性と理性のバランスが必要、補い合って間違いを正しながら進みたい。スタッフとのパートナーシップも大切だと思う。僕は怒らない男なのだが、先日は本当に怒った。里子が大人を信頼出来る大人と認めていないと言うことがある時、冷静に話すことも大事だけれど、本当に怒らないといかん時もある。本気で怒ると子どもたちが変わる。

 

5年先の事。「FHの外側に、社会的養護を理解してくれる人、支援者を作っていこう」と思う。やっと私たちを見て里親になった人が2家族生まれ、子どもを預け合っている。FHを拠点に最初は点でも良いから、地域に理解者を作り、それが広がってゆけば、プライベートな子どものビレッジが出来て来るのではないか。

 

最後に「暴力や暴言」などへの対処の仕方については、それが起こらないように子ども同士、大人と子どもの関係の距離を適切に作ることが必要と思う。

 

それを私はHuman Distanceと名付けている。

 

『2018年12月4日火曜日

「人権を尊重する市民の集い」実践報告』

                         里父AY

お話しをさせていただく機会を与えられて感謝します。

 

「人権を尊重する市民の集い」にふさわしいお話しが出来るか危惧しますが、ささやかな思いと体験をお話しして、その責任を果たせればと思います。

 

私は30歳のときに幼稚園設立と幼児教育の現場で働くチャンスを頂きました。

 

人間の生涯教育の出発点である乳幼児教育の学びをするために、母校の神学部に編入して、幼稚園で働きながら、4年間の学部生活を過ごしました。その中で心に残る先生や学友に出会えたのは、私の生涯の貴重な財産であると思っております。私は、生涯無一物の生き方をしたいと考えておりますが、この貴重な経験と人との出会いは、何物にも変え難い、目に見えない財産です。

 

その出会いの中で、最初にお話ししたいのは 一人の学友、私の友人のことです。この友人とは大学で3年間、机を並べて親しい交わりがありました。

 

この友人は 目が全く見えないという、大きなハンディがあります。

 

けれども、彼には素晴らしい声、テノールで、心を揺さぶる魂の歌を歌います。

 

友人の名前は、「新垣 勉 あらがき つとむ」といいます。

 

1952年 沖縄で生まれ、父は嘉手納基地に駐留していたメキシコ系アメリカ兵、母は沖縄の読谷村(よみたんそん)生まれの日本人女性でした。彼が生まれて、両親は離別、父はアメリカに帰国、母は再婚。彼は祖母に預けられ、育てられました。それだけでなく、生まれてすぐに、医療ミスで、使用してはいけない薬品を目に手当されて、失明を強いられてしまいました。

 

母に対する憎しみ、父を探して殺したいという衝動、死にたいという絶望が、彼を襲ったのは想像に余り有ります。そのような彼を救ったのは、二つの出会いでした。その一つは ① ラジオから流れてきた様々な歌でした。東京混声合唱団、二期会合唱団、教会の讃美歌も有りました。後世、全盲のテノール歌手として世に知られ、サントリーホール、武道館、アメリカのカーネギーホールを満員にするほどの歌手になる土壌は、このとき既に有ったのです。また、マリオ・デル・モナコを育てた、有名なボイストレナー、アンドレア・バランドーニさんは、新垣勉君の声を、このように表現しました。「君の素晴らしいテノールの声は、君のお父さんからのプレゼントです」と言わしめたのです。

 

この言葉は、憎んでいた父親を受けいれる父との和解に一歩前進する言葉でもありました。生まれながらにもって生まれた賜物、父親からの贈り物は、ラジオから聞こえてきた歌、音楽に出会って、声楽への希望を触発させました。

 

このような出会いについては、私のお世話している子ども、里子の実例の中にもあります。ささやかでありますが、後ほど、子どものケースでお話ししたいと思います。一人ひとりの里子にも両親からの贈りもの、祖先からの受け継いだギフト、賜物が必ずあるのです。もう一つの新垣勉君の出会いは、新垣君の心の中からのことば、絞り出す本心の言葉に、耳を傾けて聞いてくれた人がいたという、人との出会いです。

 

新垣勉君は 14歳で育ててくれた祖母を亡くし、天涯孤独となりました。

 

その後、16歳で出会ったある牧師に、こう告白したのです。

 

「僕は、大人になって、アメリカに行って、父親を捜して、見つけて、殺してやりたいのです。」その告白を聞いた、その人は何も言わず、新垣勉君の声に耳を傾けていましたが、新垣君の耳には、その人のすすり泣く声が聞こえてきました。新垣君はその時の場面を思い出しながら、こう表現しています。

 

「言葉にならない言葉というものが、人の心を動かし癒やすのかな。何となくそういう思いが自分の中に起きてきた。そして、わずか16歳の少年のために、他人の一人が、どうして自分のために涙を流してくれるのか?そのことにも驚いた。」と、いうのです。 父を許す、母を許す という、心の溶けていくような始まりだったのではないでしょうか。

 

私は、このような場面を心に描いてこのように思っています。

 

「このような心で 言葉にならない言葉で 子どもの 里子の 言葉を 聞いてあげらる 里親になりたい! ならねば!」     そう思います。

 

逆境 満帆! 新垣勉君の 旗印です、しかし歌と人との出会いは 彼を活かし、彼に逆境 を跳ね返す力を与え、逆風 満帆 人生の航路を 切り開いていったのです。 里親と里子の出会いも 新たな道に一歩を踏み出す出会いになっていかなければと、勇気をもらっています。

 

里親と里子の話をしたいと思います。

 

ここに 喜 怒 哀 楽    反感 共感 という言葉を書いてきました。

 

里子 たちは 一概に 喜怒哀楽 の 喜 と 楽 がなく 怒りと 哀しみ 不安に満ちているように思えます。

 

喜 とは 愛 喜び 安心 寛容という広いこころ柔和な、こころ模様をいいます。楽 とは 文字どおり 嬉しくて楽しくてたまらない心です。

 

里子たちには その喜び 楽しみの 心が 養われていません。育っていません。反対に 怒り 哀しみが  心に満たされていると 言っていいでしょう。

 

自分中心 ねたみ 嫉妬  やきもち 人の喜びを喜べない

 

自分が喜 楽に 満たされていなければ 友人や 友達 近隣の人や大人にそれを、分け与えることは 出来ないと思います。

 

それを 私は 「大きい方は あなた! 小さい方はわたし!」の心といっています。ある賢いお母さんが こんなお話をしました。幼い姉妹を育てるときに平等であることは、勿論大切ですが、自分よりも他者を思う心も育てなければならないと、考えてきた。「一つのおせんべいを二つに割って 二つに分けあって食べなさい!」といって渡す、どちらが二つに割るかは別にして 決っして間半分には割れない、その時、二人の姉妹の心の中には、どちらが大きいか、どっちが小さいか!?」「どちらをとるか、どっちをやるか?」の一瞬の心の戦いがある、そして決断する、「大きいほうがあなた、小さいほうが私!」 このような決断を出来る子育てを願ってきたというのです。このような親や大人の態度、生き方が大きな影響を子どもに与えるのです。確かに姉妹は立派な大人に成長しておられます。これが 里子たちは難しい!のです。 全部自分のもの、分け与えるという心の余裕がまだ育っておりません。

 

共感 共感の心 と 反感   反感の心。

 

共感とは 他者の喜びを喜ぶ心 

 

反感とは 他者の喜びを喜べない心  他者がいい成績をとったり、いいプレゼントをもらったりしても、よかったね!と言えない、思えない心、非難したり、無視したり、素直な表現が出来ない心です。けれども、反感の心をなくす、ゼロにすることは出来ません

 

乳幼児期(胎児期~9歳迄)に喜びとうれしさ、幸せ感の中で育っていれば、大きな共感のオブラートで、怒り、哀しみ そして嫉妬や妬み、やきもちという反感を覆うことができます。

 

喜、楽の心を 里子の心に満たして上げることが、里親の里子に接する心構えではないかと教えられるのです。

 

そのような 心は 母親の心、教え、家庭教から学ばされると思います。

 

里親には 出来ることと、出来ないことがあります。特に幼い時と違って、思春期以降 母親や血のつながった血縁でなければ 出来ないことが出てきます。

 

そのような里親の役割の難しさの思いから、子どもたちの母親や親戚血筋の方々との絆を前向きに作ってきました。

 

これは、大変なことでもあります。大概、父親、男性は行方不明、どこにいるのかわかりません。母親は一人残されますが、心の病気だったり、別の男性、つまり、里子が知らない男性のパートナーがいます。母親すなわち、パートナー付お母さんと話し合うということが大事になります。

 

里親のケースワーカー的仕事があります。母親の生活、服装やたばこの喫煙の苦情、子どもの学校の報告、行事への参加呼びかけなど頻繁な接触が必要です。男性パートナーが変わる事にも関わらなければなりません。

 

私たちの生活の場は、FH(小規模住居型児童養育事業)アガペ・ヴィレッジ といいます。

 

FHは 定員6名で、大規模児童養護施設から 小規模施設へ移行した施設です。

 

子供の構成員  19歳の女の子   専門学校生

        16歳の女の子   高校生

         14歳の女の子   中学生 2人

         12歳の男の子   小学6年生

         9歳の男の子    小学3年生

 

 一番上の専門学校の女子と一番下の小学3年のことについてお話したいと思います。19歳の女子、来年3月で20才、成人式を迎え、専門学校を卒業して横浜に就職します。

 

中学生のころ、将来の夢を語り始めます。

 

幸いにお母さんはよくFHに来ていました。お母さんの得意な事はお料理でしたこの子は「お菓子を作る人」が夢で、将来はお菓子作りの専門家、パティシエを目指す事を考えていました。料理やお菓子作りが好きなのは、お母さんからのプレゼントですね。高校もそのコースがある学校に進み、専門学校も製菓コース、パティシエを目指す専門学校に進みました。

 

これを実現するため、児童相談所の2年間の措置延長の決定もありました。

 

3つの給付型奨学金の取得には、里親の強力なサポートが必要でしたが、それが効を奏して、この奨学金で学費は全部まかなえました。ただし途中退学とか卒業が出来ない場合は、全額返還の義務があります。また、就職活動においては高校時代に専門のコースを選んでいたこともあって、成績も真ん中くらいで、就職担当の先生方の理解と協力も得られて、遅ればせながら念願の菓子部を持つホテルに決定しました。

 

就職先は、横浜の大きなホテルです。4月から横浜で一人暮らしが始まります。

 

もう一人は、一番下の9才小学3年生の男子です。大変神経質多動で、乳児院から3才になる前にやってきました。かなり長く夜驚が続きました。つい最近まで昼夜逆転があり、夜寝るという当たり前のことが出来ません。里子が夜寝ない、寝つきが悪いというのは、里親の大きなストレスの一つですね。

 

この男の子は引き受けてから7年目に入りましたが、やっと少し変わってきたかなという様子です。以前は夜寝る時間になると、目の色が変わって少し恐ろしいような夜行性の目つきになったのですが、最近は夜になると眠たい様子をするようになりました。聴くところに寄ると、母親の胎内にいるときから、母親は昼夜逆転の夜の生活だったそうです。一年間ゆっくりと家で過ごし、二年目は、3年保育で幼稚園に車で通いました。幼稚園の先生方は事情を理解した上でよくお世話をしてくださいました。幼稚園には嫌がらずに通っていましたが、自ら進んで楽しむ力は無かったと思います。幼稚園の運動会に参加できたのは年長児になってからでした。1年から3年生の2学期始めまで、不登校と登校前の朝の時間の混乱パニックは大変でした。担任、学年主任との協力、話し合いに時間を掛けました。一番効果があるのは、先生に迎えにきてもらうことです。一度だけそれを要請したことがあります。それが出来るのも、小学生の2年生位まででしょう。自主的に学校にいくという芽を伸ばして行かないといけません。「芽を伸ばす!」ということは、かなり難しいことだなと思います。

 

里親は、学校の校長先生はじめ担任、学年主任、その他の力のある先生方の協力を引き出せる関係を作ることが大切です。それに地域の方々の声かけ、児童民生委員の働きも頼りになると思います。

 

さて、この9歳の子の賜物、才能、をどのように理解するか?

 

幼稚園に通っているとき、幼稚園では放課後、YMCAのサッカークラブがありました。よく見学したのですが、「サッカー、やりたいか?」と聞いてもやりたいとは言いません。体育教室もありましたが、やりたいと言いませんでした。何に興味があり、何が得意なのか? なかなか思いつかず、自分から何かをやりたいという意志表示もありません。

 

その時、思い出したのが生後4ヶ月~2才10ヶ月まで過ごした乳児院から、引き取るときの先生の言葉でした。「この子は一度聞いた歌は、ちゃんと覚えていて、正しく歌えるのですよ!」という言葉でした。それを思い出したので、この子のおばあちゃんに電話を入れて、その音楽的賜物のルーツを探ってみたのです。そうしましたら、彼のおじいさんにあたる人が、なかなか音楽に興味関心があった人だとわかりました。

 

それで、「どうだ!ピアノをやってみるか?」というと、「やりたい!」といいました。長く付き合いのあるピアノの先生にお願いしてレッスンが始まりました。上手に弾けるようになるというより、子どものメンタルも配慮して指導してもらっています。

 

今年、4回目の発表会が終わりました。モーツアルト、ベートーベンの短い曲ですが暗譜で弾き終えました。けれども、ピアノの先生のお宅に通う時に、途中で違う小学校の生徒に会うことを理由に、行くことを渋り動かなくなってしまったので、先生に自宅にレッスンに来ていただくようにして、今も続いています。

 

他の子どもたちも それぞれ将来の夢を持っています。

 

高校一年生の女子は、韓流エステティシャン、中2女子二人は、中華料理と和食のそれぞれ料理人、小6の男の子は、絵画 工作などの芸術活動の関心を活かしての作業所などでしょうか。

 

里子たちの将来の夢を、彼らの賜物を考えて、共に語り合えるのも、里親ならではの喜び、やりがい、でもあります。

 

私は、上智大学のアルフォンス・デーケンさんの「死の教育」や、エリザベス・キューブラロスの「死の瞬間」などの講義をしてくださった大学の恩師から、アメリカでの研究の内容、つまり「人の誕生から、その一生涯」を扱う生涯教育(ロングライフエデュケーション)の講座から、アメリカの里親制度に触れられたことが里親に関心を持つ機会になりました。またその恩師が季節里親をしておられたことを見て、里親登録を致しました。38才のときでした。

 

また、里子が社会人として自立するまでを見守る責任が、里親にはあると考えております。具体的には、里子が28才になるまでは見守り続けられる制度が大事だと思っています。

 

「富士山に登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」 それを文字って、

 

 「里親をやらぬ馬鹿、二度やる馬鹿」 一度は経験してみることは、勉強になる。

 

「里親をやると健康になるか? 病気になるか?」

 

私は、今75才です。最近は 成長盛りの小学3年生、6年生の男の子と、サイクリングしたり、野球をしたり、元気に過ごしております。里子から遊びをせびられると動かざるを得ません。ドライブ、公園、散歩、一日中 動き回っております。里親は病気をする暇がありません。健康に過ごせます。子どもと一緒に居る緊張感もあります。

 

2018年11月29日

 

「富士山に、一度も登らぬ、なんとか!」っていいますね!そして、「二度登る、なんとか!」ともいいます。皆さんの中には富士登山をされた方もいらっしゃるでしょう。私も一度登りました。富士登山観光旅行です。両足の親指の爪をはがしてしまいました。

 

バスが富士山の五合目に近づいて来たとき、バスガイドさんが言いました。「皆さんの中で、何人富士山の頂上まで登られますかね?」バス内には50人ほどがいました。みんな富士山の頂上まで登るつもりで参加しているはずなのに、中には登らない人、登れない人もいるのか?と不安が横切りました。私も安易な気持ちでいたからです。5合目到着、最初から登らない人もいました、8合目まで登って、宿舎で奴隷船の中のような寝方をして、早朝ご来光に間に合う時間に起きて、頂上目指して出発しました。9合目でダウンする人、それ以上登ることを諦める人も出てきました。頂上の明かりを見上げながら、足を踏み外すと転げ落ちて命を落としかねない、暗がりのザラザラの登山道を、前を歩く人の足の運びを見ながらついて行きます。やっとの思いで頂上に着きました。6人の仲間のうち、頂上まで行けたのは2人、私は頂上に着いた途端、身体の震えに襲われ、しばらくガタガタと止まりませんでした。頂上の売店の甘酒に救われ、一息つきました。ご来光バンザイ!を三唱して下山を始めたのですが、途中で5人ほどの救急隊員が担架を持って頂上目指して駆け上っていきました。聞くところによると、熊本から来た団体のメンバーのご婦人が、亡くなられたということでした

 

どうして、富士登山のお話しをしたのかといいますと、「里親を一度経験していただきたいと思うからです」 素人の富士登山の経験のように、危うさや、大変な苦労もありますが、頂上に登ったあの感動と達成感、登った人だけがわかる充実感があります。

 

そして、「里親を一度もしない!ということは、社会的養護という最後の里親制度を必要とする子どもたちが、私たちを待っていて、最後のソーシャル・ネットにひっかかった子どもたちを見て見ぬふりをして、無視して手を出して助けようとしないことではないでしょうか?、見知らぬ多くの大人の援助で、今、生かされていることを、有難いこと、感謝なことと思い、具体的に行動で示す事ではないかと思うのです。私は、75才の後期高齢者の初年兵、同じ年齢の里親さんと、「80まで、元気で、頑張りまっしょ!」と、肩をたたき合っています。

 

年齢を重ねれば重ねるほど、人様によって、助けられ、支えられているという思いが強くなります。

 

『高校三年間は遅刻、欠席もせず、皆勤』       卒業生Yちゃん

 

私は小学1年生なる直前に施設に来ました。最初はなんでお母さんと離れて暮らさないといけないのかと思い、泣いていたことを覚えています。少しずつ過ごすうちになんとなく理由が分かり、しょうがないなと思いました。お母さんとは毎日会えないけど、運動会、授業参観、入学式、卒業式など、行事ごとには会いに来てくれて、すごく嬉しい気持ちでいっぱいでした。

私は小学1年生の時からパティシェという将来の夢があり、高校は製菓コースのある学校に行き、専門教科、実習などありました。実習では、洋菓子、和菓子、パンを作りました。実習で作ったものは家に持って帰り、施設の子どもや、里親さんなどに食べてもらい、いつもおいしいと言ってくれて嬉しかったです。また妹の誕生日にはケーキを作ったりして美味しそうに食べる妹を見て、また作ってあげたいと思いました。高校は担任も、クラス替えもなく充実した学校生活を送ることが出来ました。担任の先生はすごく厳しくて嫌になることがあったけど、私たちのために言ってくれたと思うとありがたいなと思いました。そして高校三年間は遅刻、欠席もせず、皆勤を持つことが出来ました。無事卒業することができてよかったです。これからは専門学校に行って技術を身につけていきたいです。里親さん、施設に来て12年になって、最初は言うことをきかなくて大変だったと思うけど、ダメなことはダメって言ってくれたり、何か出来た時はほめてくれたりして嬉しかったです。今までありがとうございました。

 

『私の前には道はない、私の後ろに道ができる』      里父AY

 

今日は素晴らしい巣立ち式をYさんのために持っていただいて、有難うございました。今の言葉にもありましたように小学校一年生の時から、高校卒業まで私たちと一緒に生活を一緒にしてきました。彼女は3月10日が18歳の誕生日で、素晴らしい記念の巣立ち式になったと思います。3月10日の誕生日の時に家内と二人でささやかなプレゼントを差し上げたのですが、その時に書いた言葉が「私の前には道はない、私の後ろに道ができる」これからは大人に向かっての第一歩が始まるんだ、そういう気持ちで言葉を差し上げたと思いますけれども、本当に巣立ち式の今日から、彼女の新しい一歩が始まると思います。先ほどの会長のご挨拶でも、本当にこころ温まるお言葉をいただきました。そしてライオンズクラブの皆様には、本当に記念になるお祝い金をいただいたと思います。そういう背景を持っている子どもたちは幸せだと思いますので、きっと自分の道を究めて進んでいってくれると思っています。僕の持論ですけれども、「28歳までは結婚するな」と言っています。28歳になってようやく精神的にも一人前になれるという、そういう僕の信念であります。しかし、彼女はどうなるかわかりませんが、僕の期待だけは伝えておこうと思います。今日、来ていただいたライオンズクラブの皆さま、本当に有難うございました。お礼を申し上げたいと思います。

 

『言葉と出会う』   里父AY

 

私は、いろいろな先生との出会いから、その道が示されてきたと思う。そして、その出会いとは先生の言葉との出会いでもあった。2016年3月と11月に尊敬する二人の元大学教授が亡くなられた。その一人は、猪城博之先生、もう一人は後藤泰二先生である。

猪城博之先生は、九州大学や西南学院大学で、哲学(論理学)を教えられ、熱心なキリスト教の信徒でもあった。私の高校、大学の同期で加藤高穂牧師の福岡アサ会という教会の会員であった。その教会の機関紙「アサ便り」が定期的に送られて来るが、その便りで先生の訃報を知った。そこには教え子の追悼文が記載され、数々の思い出が書かれていたが、その一つにこんな記事があった。ある授業時間に、先生が学生に、「君たちは10回以上繰り返して読んだ本があるか?」と聞かれたというのである。考えさせられる質問である。手を上げた学生がいたかどうか分からないが、それを読んで、私自身に問われたような気がした。そしてこの質問に触発されて、私はとっさに残された人生の時間で、聖書を1

0回読みたいと思った。考えると、私には10回以上読んだ本があった。それらは本といってもさほどぶ厚いものではなく、手の平に載る簡易な詩集と箴言集である。どんな本であっても、出会ったものを10回以上読むと言うことは、その人にとって非常に大切な本であるという証しであろう。長年、幼稚園で幼児教育に携わり、お母さんや父親また保護者の話に耳を傾け、子どもの成長に重要な事は何かと自らに問うてきたが、この二冊の本には隠された知恵の言葉があると思えたので、手放さなかった。

その二冊とは、「母と子の詩集」周郷博著、「預言者」カリール・ジブラン著 である。

さて、あなたには10回以上読んだ本が、いや、これから10回以上読んでみようと思う本があるだろうか? 私の大切な二冊から一つの詩と一つの箴言を紹介してみたい。

 

・疑い深さを知らぬ子ども     ウイリアム・ワーズウォース

 

疑い深さを知らぬ子ども ~~~

軽やかにその身体が息づき、

手足のすみずみまで生命(いのち)を感じている、

そういう子どもが、どうして死なぞというものを

知っているはずがあろう!

 

・子どもについて         カリール・ジブラン

 

あなたの子どもは、あなたの子どもではない。

彼らは、人生の希望

そのものの息子であり娘である。

あなたは、彼らに愛情を与えてもいいが

あなたの考えを与えてはいけない。

何となれば、彼らは彼ら自身の考えを

もっているからだ。

あなたは、彼らのようになろうしてもいいが、

彼らを、あなたのように

しようとしてはいけない。

 

『差別のない、包括的社会』  里父AY

 

南区長住に梁井小児科という病院があります。今は二代目のお医者さんですが、初代の先生は梁井昇という九州大学の医学部を卒業された先生でした。奥様の梁井迪子さんは同じく九州大学の教育学部を卒業され、教育相談や育児相談の専門家であり、また高宮アミカスの館長もされました。今でいう男女共同参画推進運動のリーダーとして活躍されました。

 

さて今から40年前、開園早々の幼稚園に梁井昇先生から電話が入り、一人の女の子を入園させて貰えないだろうかという相談がありました。その子は、お母さんが妊娠中に風疹に罹患したため、幾つかの障害を持って生まれた子どもで、誕生後その病院に通院していたのです。実際にお会いしますと、身体も弱く、そして難聴と視力障害があり、口蓋裂で発音が不明瞭なお子さんでした。幼稚園の先生達にこの話をして、未知の世界でしたが、受け入れることを決めました。

 

それには少し訳があったのです。当時このような障害を持った幼児を受け入れる幼稚園はありませんでした。しかし福岡市内にただ一つ、西南学院付属の舞鶴幼稚園だけは積極的に受け入れていました。舞鶴幼稚園はキリスト教保育を通して、思いやりの心を培いながら個性豊かにのびのび生きる力を育むという教育目標を掲げて、その一環として障害を持つ子どもたちとの統合保育の実践に取り組んでいました。その報告集が出版され、健常児も障害のある子どもも、共に保育を受けるという理念を謳っていました。いつか、そのような保育の実践をしたいと鼓舞されたのでした。そのような教育を、Integrated  Education(統合保育)と呼んでいました。Integrateとは、まとめる、結び付ける、融和させる、差別しない、という意味があります。つまり、どんな子どもも平等、公平で差別されてはならない、たとえいかなる障害あっても差別のない共同教育を目指すというものなのです。キリスト教保育を根本に置く幼児教育という共通点から、舞鶴幼稚園は私の目標でもありました。

 

初めて受け入れたこの女の子は、一年間の保育を受けて卒園していきました。この子が私の目指す統合保育の門を開いた最初の子どもでした。それ以来、100人近い障害を持った子どもたちが統合保育の現場にやってきました。当時の先生達には大変な苦労を掛けましたが、又それによって素晴らしい出会いを子どもたちは与えてくれたのでした。

 

その中で、一人のTくんという子どもを紹介したいと思います。Tくんは健常で生まれたのですが、幼い間に腹膜炎を起こし、医療ミスから脳性マヒとなり、歩くことも出来ませんでした。けれども幼稚園はT君の兄弟と同じように幼稚園に通わせたいというご両親の希望を受け入れ、2年半の間専属のケースワーカーがついて通園し無事に卒園しました。その間にお母さんは父母の会の会長も引き受けられ、一生懸命幼稚園の為に尽くして下さいました。あれから30年後の今、「NPO法人障がい者・より良い暮らしネット」の代表をしておられるのが、Tくんのお母さんです。

 

先日その法人が企画した研修大会に参加したのですが、その大会のキーワードは、Inclusive Educationという言葉でした。この意味するところは、包括的に社会全体がつながり、すべての人を開放させる教育を求めていくと言うことでした。それは障害を持った人々の生活を守るには、社会全体の新たな在り方を考えていかなければ解決に結びつかないし、閉塞感を漂う世の中で全ての人が人間らしく生きる為には、包括的に全ての分野を結びつけていく必要がある時代が来ていると考えるのです。

 

障害のある子どもに手を差し出すことは、全ての分野とのつながりと協働を促すことになる、という必然性を考えられています。

 

『喜びのタネをまこう』      --「Mr.Gambajiji Kodomo」シリーズ--

 

  私の先輩に小笠原浩方という先生がいます。京都の雑創の森「そよかぜ幼稚園」の理事長であり、同志社大学の神学部を卒業した牧師です。この先生と知り合ったきっかけは、その幼稚園の風の園舎と呼ばれる建物です。風変わりな園舎で、屋上には大きな幾つかの風車があり、風が吹く度にゆらりゆらりと動き、風が吹いてるぞ~と穏やかに回るのです。この建物の設計者は六角鬼丈(ろっかく きじょう)、風車は新宮晋(しんぐう すすむ)で、二人とも東京芸術大学の同窓生です。子どもは遊びを通じて、学び、成長する、そして刻々と変化する自然、風、空、雲、雨、水等とのふれあい、遊び体験が重要であるという小笠原先生の考えが活かされています。この園舎は今から50年前、虚空蔵の森と呼ばれる地水火風の理想的な環境の中に、竹中工務店の施工によって完成しました。

  さて、話はこれからですが、これほどの一流の設計者、建築公司、素晴らしい環境と条件の整った幼稚園園舎が、キリスト教の牧師で資金もない小笠原浩方先生にどうして可能になったでしょうか?それは小笠原先生が出会ったある人物の支援があったからです。その人の名は鈴木清一さん。「鈴木清一さんで誰ですか?」と思われるでしょう。皆さんもよくご存じの、ダスキン、ミスタードーナツの創業者です。小笠原先生のキリスト教徒であることの清新さと、乳幼児教育にかける情熱に共感した鈴木清一氏は、その園舎建築の資金を提供したということです。

  鈴木清一氏は、愛知県碧南市の角谷家の六人兄弟の四男として生まれ、三歳で鈴木家の養子となりました。二十歳の頃、肋膜炎を患い養母の愛情に救われたのを縁に、養母の信仰する金光教に入信し、その後西田天香の「懺悔の生活」を読んで京都の一燈園に入って下座の修業の日々を送り、またアメリカに渡ってはキリスト教精神に基づく企業の民主化を進めるDIA(Democracy in Action)運動の創始者エヴァンズ博士の講演に感銘し、親交を深め様々な指導を受けて、会社の発展と経営理念を確立しました。

  それが、次のように「ダスキンの経営理念」に活かされています。

 

  一日一日と今日こそは あなたの人生が 新しく生まれ変わるチャンスです。

  自分に対しては、損と得とあらば 損の道をゆくこと。

  他人に対しては、喜びのタネまきをすること。

  我も他も物心ともに豊かになり 生きかいのある世の中にすること

  合掌 ありがとうございました。

 

  そして、私は次のような言葉も紹介したいと思います。

 

  喜びの種をまこう 幸せの種をまこう

  自分のまいた種は自分で刈り取ることになる 誰もが 喜びを与えてくれた人を 愛し

  与えられたことに お返しをせずには いられない

  だから、今すぐに喜びと幸せ、愛と やさしさと、おもいやりの種を まいてみましょう

(アイリーン・キャディ)

 

  順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ、これもあれも神のなさること、それは後の事を人にわからせないためである。

(旧約聖書 コヘレトの言葉14節)

 

  金儲けの時代が行き詰まった現代、出光石油の出光佐三の家族経営、東芝のメザシ社長土光敏夫の貧賎にして楽しむ生活、松下電器松下幸之助の人を育てる経営、三愛石油の市村清の闇こそ光が見えるとの経営理念。もう一度振り返ってその著書を読み、日本的経営を考えたいと思うこのごろである。

 

『かわいそうな 子供時代』 −−「Mr.Gambajiji Kodomo」シリーズ−−

 

昔の内閣の法務大臣である谷垣偵一(たにがき・さだかず)氏へのインタビュー記事。これは、2013年に8人の死刑囚に対する死刑が執行され、その事に関しての法務大臣としての感想を述べたものです。

 

「罪はもちろん憎むべきものですが、非常にかわいそうな子供時代を送った者(死刑囚)がほとんど。こういう生き方しかできなかったのではないかと感じさせる面もあった。」

 

「私が今まで(裁判)記録を調べてきた限りでは、こんな幸せな子供時代を送ってきたのに、こんな凶悪犯罪を犯したのかという者(死刑囚)はほとんどいなかった。」子供時代、親や大人の庇護を受け、安全して生活し、心身共に護られ、健やかに成長する。そんな子供時代を、家庭や学校、社会は保証しなければなりません。成長、発達という視点に立てば、0才〜15才までの期間を子供時代と言えます。親や大人や社会に依存して生きる時代です。その中で、もっとも重要な時期は乳幼児期といってもいいでしょう。三つ子の魂が養われ、人として生きる基盤を創造する、それは今も変わらず真実です。

 

福沢諭吉は、初等教育の中心は、「まず獣身を養う」ことと言いました。乳幼児であればまずたっぷりとした自由な時間を自然の中で、ぞんぶんに遊ぶこと、温かく見守られた信頼関係の中で過ごすこと、親や大人は、子供の成長の加勢をする役割があるのです。危機に瀕した子育て環境を、親や大人はあらゆる努力をして護らなければなりません。

 

『「月白の道」 丸山 豊著 創言社』   里父AY

 

~月白とは、いま月が出ようとする以前の空のしらみのこと~

 

私の父は1913年(大正2年)生まれです。太平洋戦争では南方の島を転戦したと聞きましたが、戦争に出征した二兎の多くが帰還しても戦争のことは一言も話さないと言われます。ご他聞に漏れず、私の父も語りませんでした。読み継がれる戦争文学の白眉!と紹介された「月白の道」を手に取りました。作者の丸山豊氏は1915年(大正4年)、八女郡広川町の開業医の長男として生まれました。丸山氏が生きた年代は私の父と合致します。戦争は殺すか殺されるか、死を待つか死を選ぶか、生死の土壇場にありますが、そのような時に夢とも幻とも思われる心象が浮かんでくる、それが幼いときの風景であったと書かれています。「なぜか私は、久留米の樹木の多い町を思いうかべた。それが高良神社でも水天宮でもなかったのは、そこが私の零歳から三歳までの住居の氏神さまであり、子守の監視を受けながら砂いじり日向ぼっこをしたお宮であるからにちがいない。」

 その時の著者の偽りの無い心情は、「自由はいいなあ、身軽でいいなあ、生きるということはいいなあ、明るくていいなあ」という、憧れのような言葉であったと記しています。死を覚悟した時、「生の終局と生の最初」がぱったりとひとつになった重要な体験であったというのです。月白の時刻とは、午前2時から4時頃の未明の刻ともいえます。子供時代でいえば、いまだ生まれぬ胎児期であり、三つ子の魂、創成のときです。胎内から0才~3才までの乳幼児時代、その重要さを再認識させられる一文でありました。

 

『たとえ明日世界が滅びようとも(藤原新也 著)』  里父AY

 

 私が初めて、「メメントモリ」という言葉に出会ったのは今から30年ほど前である。

 

 ある日、教会で女子高校生が信仰の体験談を語ったのであるが、その中の話に「メメントモリ」なる言葉が出てきた。祈りや黙想、一日中の沈黙の修行などを話したのではないかと思う。彼女はカトリック系の女子高に通っていたので、学校のミサや沈黙の行などから受ける霊的な体験や夢等を日頃よく話していた。「メメントモリ」という言葉の意味は、「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」、「死を記憶せよ」というような意味であるが、カトリックの修道院などでは、黙想や沈黙の行への導入語と言えるかもしれない。私もこの言葉に出会い、思い出すたびに心の静まる思いになる。

 

 その数日後、私は教会から帰る途中に行きつけの本屋さんに立ち寄った。そして目に飛び込んできたのが、「メメントモリ」なるタイトルの一冊の本であった。その本の作者は藤原新也という人で、1944年生まれの福岡県出身、東京芸術大学油絵科を中退し、インド放浪の旅を振り続けている人物である。この「メメントモリ」という本は、インド放浪の途中で撮影した生と死をめぐる生々しい写真集であり、ガンジス河で沐浴する民衆の横で、荼昆にふされる人間の姿等は今も脳裏から離れない。生死が表裏一体で存在するこの世を、政治や経済は明るい生の部分だけを追おうとするが、彼はこの世の陰、暗い死の存在の確かさを忘れてはならないと訴ったへ続けてきたのである。30年前の「メメントモリ」という言葉との出会いは、私に藤原新也という人物を教えてくれた有り難いキーワードとなった。

 

 その藤原新也が新作、「たとえ明日世界が滅びようとも」を東京書籍から出版した。私が、「たとえ明日世界が滅びようとも」という言葉に最初に出会ったのは、今から50年前の学生時代であった。出会いのきっかけは忘れたが、私の記憶には「たとえあしたこの世の終わりが来ようとも、私は今日一本の林檎の木を植える。」と残っている。藤原新也の新刊の広告で、タイトルにこの言葉が使われているのに驚いて見入った次第である。この言葉は、宗教改革者マルチン・ルターの言葉であると言われる。

 

 なぜ若いときにこの言葉に出会ったのだろう。その頃の日本は、東京オリンピックの開催や新幹線開通等に国中が沸き立っていたし、経済絶好調で就職も心配なかった。勉強し、大学を出ればバラ色の世界が待っていると信じていた頃であった。藤原新也のように、私に見えない陰の世界が見えていたとも思えない。しかし、青年特有の漠然とした不安感に覆われていたとはいえるだろう。これでいいのか、間違いはないのか、世界や社会を正しい方向に変革し、人々の幸福を実現しなければいけないという自覚や使命のようなものがフツフツとあったのだろうと思う。この本の内容は、現実から目を背けないで「世の終わり」が近づく足音を正しく聞きながら、一人の大人として自分にできる「林檎の木を植える」使命を希望を持ってやりぬく勇気を与えてくれると思う。是非皆さんにも、藤原新也の会心の作をお読みいただきたいと思う。ちなみに10月31日は、マルチン・ルターの宗教改革記念日であり、その日を記念して28才でバプテスマ(洗礼)を受けて、神に拾われ救われた私の記念の日でもある。よろよろしながらも、私なりに、「一本の林檎の木」を植え続けて行きたいと心を新たにしている。

 

『幼い子どものこころの共感を育む』 里父AY

 

夏休みの或る一日、或るシーンを傍観をしながら、シュタイナー教育で言われる共感と反感の教育について、あらためて考えさせられることになりました。

 

私が川の流れで遊んでいる5人の子どもたちを見守っているとき、一人の屈強な父親が2〜3才の可愛い水着の女の子を連れて水辺にやってきました。母親はそこにはいませんでした。その子は水に入るのを嫌がって、父親の手招きを拒否している様子でした。父親は川に自分の足を入れたり、水を触ったりしてその気にさせようとしているようですが、それは応じようとはしません。熱心に父親は言葉で誘いますが、その子はだんだん大きな声で泣き始め、さらに周辺のみんなにも聞こえるような声で、「オシッコ!頭が痛い!帰りたい!」と地団駄踏んで泣き叫び、「眠たい!」と言っては川岸にひっくり返ったりしました。幼い子が水に入るのを嫌がっている様子はよく見ますが、これ程に頑として拒否する様子は見たことがありません。一方の父親は、心も行動も微動だに揺るがず、感情的にならず、一歩も引かないのにも驚かされました。その女の子は、さらに「抱っこ!」と要求しましたが、父親はそれに応えませんでした。自分の足で、歩いて入りなさい!ということなのでしょう。「入りたい」「じゃ 入ったら」「いや!」、「帰りたい」「じゃあ、帰ったら」「いや!」、「じゃ、お父さんが帰る」「いや!」そんな言葉のやりとりが繰り返されていました。特別にこの子が水を怖がる子どもで、それを何とか克服させようとする父親の親心であったのかどうかは、約15分間の様子ではわかりません。周囲の家族や子どもたちが見ている中で、父親が娘との葛藤をやり抜こうとしたこのようなシーンはそう見られるものではありません。

 

私は、それが父親の教育方針と子育てへの責任感なのだろうと推察しましたが、そこに強引なほどの父親の意志を感じました。最後まで父親に抵抗して水に入らなかった幼児も、あっぱれと思いましたが。

 

私はこの一部始終を見聞きしながら、そこに流れている空気はクールな「反感」ではなかったかと思いました。水に戯れている周囲の子どもたちの幾人かは、その空気の異様さに気付き、何が起こっているのかよく理解できないで立ちすくんで見ていたからです。

 

乳幼児教育では幼ければ幼いほど、全生活の中で「共感」を優先させることが重要です。高橋弘子先生の「家庭でできるシュタイナー教育」の言葉を借りれば、「共感とは、うれしくでしょうがない状態」を創造する教育であると説明されています。いつでも自分の好きなことをやり、そのことが大人から許されて、それが繰り返され、うれしくてしょうがない毎日を過ごしている子どもには「共感」のこころ、I am ok!という自己肯定感が育っていくことでしょう。そして、そのこころが、その幼い子どもの土台=意志を形成して、前思春期9才前後からの他者との人間関係を You are ok!という真の受容のこころに育てると考えられます。「あれをやってはいけない、これをやってはいけない、こうしなければならない!」親の思いや願望、期待や強制、つもり、が強いられること、或は平和に生き、心地よく生活することを許されない幼児は、「反感」をこころの中に充満させ、自己否定と他者攻撃の心を育てることになります。「共感」と「反感」のバランスを取れる人間になるには、乳幼児期の共感充満が重要なことと思います。

 

『あなたの子どもは、あなたの子どもではない』

                                   --「Mr.Gambajiji Kodomo」シリーズ--

 

子供について 「預言者」より

 

あなたの子どもは

あなたの子どもではない

彼らは、人生の希望

そのものの息子であり娘である。

なたは、彼らに愛情を与えてもいいが

あなたの考えを与えてはいけない

何となれば、彼らは彼ら自身の考えを

もっているからだ

あなたは、彼らのように

なろうとしてもいいが、

かれらを、あなたのように

しようとしてはいけない

 

1975年、辻井正さんは大阪にキリスト教宣教会ジョルダン修道会の援助を受けて、障害児のための教材や玩具をヨーロッパから輸入し、日本に紹介し販売する会社を創立しました。辻井さんは、関西学院大学商学部を卒業した後、文学部大学院に入学し修士課程を修了後、有名な旧西ドイツの障害(児)者施設「ベーテル」にて働き、ケルン大学で乳児の運動神経学を研鑽して帰国した。

辻井先生は社会学博士であり、現在は「辻井正こども総合研究所」の所長として、おもちゃだけではなく、子どもの保育・育児・教育と幅のある活動をされています。日本で初めてのおもちゃライブラリーを大阪で設立した人でもあり、主に障害を持った子どもたちの為の、おもちゃライブラリーの活動は、それから全国に広がって行きました。九州のおもちゃライブラリーもその流れで、北九州のカトリック教会から始まりました。

私は辻井正さんは日本の子どもたちの療育のためのおもちゃの預言者だと思っています。

さて、辻井正さんが会社を設立された頃、私の所にもダイレクトメールが送られてきました。その会社の封筒の右下に小さく書かれていたのが、上にある「子供について」の詩です。作者は、カリール・ジブランです。

カリール・ジブランは1883年レバノン生まれ、1931年ニューヨークで亡くなっています。詩人、哲学者、画家でもあり、ロダンやドビュッジー等と親交がありました。この詩は彼の「預言者」という本の中にあって、アルムスタファという預言者がさまざまな人から、人生についてのさまざまな質問を受け、それに答えるという内容です。子どもを胸にかかえた女が、子どものことを話して下さい、と問うた時、それへの答えです。

私は冒頭の、「あなたの子どもは、あなたの子どもではない」という言葉に出会ったとき、深い感銘を受けました。時代は移っても、親は子供を慈しみ深く育て、世に送り出す大切な役割を担っているだけではなく、神と世にささげる貴い任務を担っているのです。